マハリシの教えを学ぶ友への手紙(136

 

 

戦争の記憶と平和

 

 

かつてマハリシは、日本人TM教師たちとの会合において、広島の原爆ドームは取り壊すべきだと語ったことがあるそうです。どのようなやりとりがあったのか、その詳細は聞いていないのですが、その場にいたTM教師たちは少なからぬ衝撃をもって、このマハリシの言葉を受け止めたそうです。日本人の多くは、原爆ドームは平和の象徴であり、保存するのは当然である、と考えているかもしれませんが、マハリシはそのような考えを否定したのです。

 

広島市の公式サイトに平和学習というページがあり、そこには原爆ドームに関する以下のような説明があります。

 

原爆ドームは、第2次世界大戦末期に人類史上初めて使用された核兵器(かくへいき)により、被爆(ひばく)した建物です。ほぼ被爆した当時の姿のまま立ち続ける原爆ドームは、核兵器の惨禍(さんか)を伝えるものであり、時代を超(こ)えて核兵器の廃絶(はいぜつ)と世界の恒久(こうきゅう)平和の大切さを訴(うった)え続ける人類共通の平和記念碑(へいわきねんひ)です。

 

原爆ドームを平和記念碑と呼ぶのは妥当とは思えません。記念碑とは、過去の出来事などを記憶に留めるために建てられる石碑のことです。原爆ドームが平和を記念するものでないのは明らかではないでしょうか。原爆ドームは「核兵器の惨禍を伝えるもの」であると言うのですから、記念碑と呼ぶのなら「戦争記念碑」「被爆記念碑」などと呼ぶべきしょう。あるいは、平和の大切さを訴えるためのものであると言うのなら、「平和祈念碑」と呼ぶのが妥当かもしれません。しかし、いずれにしても、マハリシは原爆ドームは解体すべきであると語りました。

 

原爆ドームの存在が世界平和に寄与するのなら、原爆ドームは保存されるべきだと語られたはずです。世界平和に寄与しないものだからこそ、解体すべきであると語られたのでしょう。世界平和に寄与しないだけなら、有っても無くても同じであり、あえて解体する必要もないかもしれません。しかし、マハリシは、解体すべきであると言いました。つまり、原爆ドームは世界平和に寄与しないどころか、世界平和を阻害するものである、あるいは阻害するものになり得る、ということなのかもしれません。

 

原爆ドームは恐るべき核兵器のことを後世に伝えてくれる貴重な遺産である、こう言う人もいるかもしれません。戦争の悲惨さ、恐怖を語り継ぐことで、人類が二度と戦争を繰り返さないようにしたい、そう思う人もいるかもしれません。しかし、戦争の体験を語り継ぐことが、本当に世界平和の実現につながるでしょうか。核兵器の恐怖を後世の人々に追体験してもらうことによって、世界平和が実現するでしょうか。マハリシは、何であれ恐怖に基づくものは決して建設的ではないと言います。平和に向けた取り組みが恐怖に基づいているのなら、それは平和を生み出すことはできないと言っています。

 

核兵器の恐るべき破壊力を知り、その悲惨な被害を知った人の多くは、言いようもない恐怖を感じるのではないでしょうか。大人たちから与えられる「平和学習」をとおして原爆被害の惨状に触れた子供たちの心には、恐怖という傷が深く刻まれるのではないでしょうか。そうして、戦争を経験したことのない若い人々の心にも戦争に対する恐怖が植えつけられます。しかし、戦争の恐ろしさを知ったからといって、戦争を根絶することはできません。恐ろしい戦争は経験したくない、決して戦争はしない、と決意したからといって戦争が無くなるわけではありません。恐怖は、自己閉鎖的な逃避につながることもあれば、攻撃的な闘争につながることもあります。人々が武器を手にするのは多くの場合、恐怖に駆られるからです。そして、武器を持つことで、ますます恐怖は増大します。恐怖が戦争の一因であるのは明らかです。

 

戦争を恐れ、戦争を嫌悪しても、戦争から逃れることはできません。平和が希求されるとき、その想いのほとんどは戦争という苦痛に対する嫌悪から生じます。戦争の惨禍を伝えると言われる負の遺産は、戦争を経験した人々にとっても、戦争を経験したことのない人々にとっても、戦争に対する嫌悪を生む働き、あるいは嫌悪を強化する働きをするおそれがあります。平和の願いが戦争に対する嫌悪の反動であるのなら、求められている平和は真の平和ではありません。戦争の恐ろしさに触れることで、戦争を回避したいと思うのは自然なことかもしれませんが、そんな反動的な願望によって真の平和を実現することはできません。

 

一般的には、戦争とは物理的な兵器を用いた武力衝突のことであり、武力衝突のない状態が平和だと考えられています。しかし、真実を言えば、世界は常に戦争状態にあると言うのが正しいのではないでしょうか。個人と個人の間、小さな集団と集団の間には、絶えず争いが起こっています。個人と個人の間の争いも、国家と国家の間の争いと質的には同じです。私たちが国家間の戦争を無くしたいと思うのは、自身が蒙る被害が甚大だからです。しかし、大した被害につながらない個人間の争いは、それほど問題視されません。それゆえ、人々は当たり前のように他者と対立し、争いを続けます。そうして、人々は世界平和の崩壊に加担するのです。

 

家族や友人達の一団の中に意見の相違や衝突があるとき、その不和は小さな範囲だけで起こっているように見えます。個々人は、敵意、悪意、非行、悪態、苦しみを通じて自分が世界の平和の破壊と崩壊の一因になっている、ということを理解していません。

 

あらゆる国際紛争は、個人個人が周りの空気に放出してきた緊張の集積的な影響によって引き起こされます。しかし、人は分かっていません。想念や言動を通じて、自分が繰り返し憎悪の影響を放ち、緊張の度を高めているということ、そして、その緊張が或るとき限界に達して破れ、それまで自分が周りに創出してきた影響が自身に返って来る、ということが。

 

世界平和に関心のある人々は、今や個人の平和に注意を向けるべき時です。個人の問題を無視しておきながら国際紛争の問題を解決しようとするのは、世界平和を確立するうえでは全く不適切な試みです。(『有の科学と生の芸術』より、マハリシ出版『超越瞑想』313〜314頁、読売新聞社『超越瞑想入門』1992年改訂新版324〜325頁に相当)

 

Where there is disagreement and dissension in families or in a group of friends the disharmony seems to occur only in a small area. Individuals do not realise that, through ill-feeling, malice, bad behaviour, harsh words and suffering, they are contributing to the disruption and destruction of the peace of the world.

 

All international conflicts are caused by the collective effect of tensions which individuals have released into the atmosphere. And the individual does not realise that by thought, speech and action he constantly emits all influence of hatred, building up tension which at some point will break and return to him the effects which he has created around him.

 

It is now time that those interested in world peace should attend to the peace of the individual. To try to solve the problem of international conflicts while ignoring the problem of the individual is a wholly inadequate attempt to establish world peace."The Science of Being and Art of Living", 1966, p.244-245

 

人類は、平和の何たるかを知らずに平和を求め続けてきました。人類の歴史を省みると、過去3000年の間に約8000もの平和条約が結ばれたそうです。しかし、条約が保たれ一時的な平和が維持されたのは、平均でわずか9年間にすぎません。第二次世界大戦後も、世界で100以上もの戦争が起こったと言われています。世界平和の実現に向けた人類の取り組みは、ずっと的外れだったのです。

 

マハリシは、「新たな種だけが新たな作物を生む」「新しい哲学、新しい知識に基づく新たな努力によってのみ、賢人達の長年の夢であった世界平和が実現する」と語っています。過去の戦争を反省し不戦を誓う、というのも古い種の一つにすぎません。そのような試みによって世界平和を実現することはできません。それは、人類の歴史が証明しています。平和な世界とは平和な個人が生きる世界です。世界の構成員である個人が平和でないにもかかわらず、世界が平和であるということはあり得ません。平和な世界を創造するためには、何よりも先ず一人一人が平和にならなくてはなりません。

 

マハリシによれば、平和とは無敵であること、敵が存在しないことを意味します。敵が存在するかぎり、あるいは敵が発生し得るかぎり、平和はあり得ません。

 

非暴力が確立すると、その人の近くでは敵意が捨てられる。(ヨーガ・スートラ、2章35節)

 

非暴力が確立するということは、言い換えれば、私たちの精神がヨーガ(超越意識、絶対的な至福意識)に確立するということです。ヨーガに確立して生きる人にとっては、敵は存在しません。争うべき相手は存在しません。無敵の境地を生きる人は、自然に平和の影響を世界に放射します。世界の平和に貢献することができるのは、自身が平和である人だけです。平和の大切さを声高に叫んだとしても、平和の影響を広げるとはかぎりません。平和の大切さを訴える人自身が平和でなければ、その人は自身の活動を通して不和の影響を広げ、世界平和の崩壊に加担しているかもしれないのです。世界の平和を願うのなら、先ずは自分自身が平和にならなくてはなりません。

 

同じ過ちを繰り返さないためにも、戦争の記憶を風化させてはならない、そう人々は言います。しかし、平和を生きるためには、戦争を経験する必要があるでしょうか。戦争の記憶を保ち続ける必要があるでしょうか。戦争の悲惨さを語り継ぐ人達の話を聞かなければならないのでしょうか。そんなことはありません。戦争を経験した人であっても、戦争を経験したことのない人であっても、内なる幸福に確立することで平和を生きることができます。

 

重要なのは、戦争の悲惨さを学ぶことではありません。戦争の害悪を理解するためには、戦争を経験する必要もなければ、経験者から戦争の悲惨さについて話を聞く必要もありません。平和であるということは、戦争の害悪を知的に理解したうえで戦争を放棄するということではないのです。戦争の記憶にもとづいて平和を守ろうとするのは、平和は戦争の対極であるという誤解から始まる不適切な取り組みです。平和は戦争の対極ではありません。対極としての平和は戦争と同じ平面にあります。真の平和は戦争も平和も超越しています。

 

戦争の記憶が新たな戦争を防ぐのではありません。戦争の記憶は人それぞれであり、同じ出来事を経験したとしても、その記憶は人によって異なります。第二次世界大戦では、世界全体で6千万以上もの人々の命が奪われました。まさに、集団的な狂気です。この狂気の戦争も、人類のすべてが同じように記憶しているわけではありません。戦争をどのように思い出すか、それは立場の違いによって様々です。

 

広島と長崎への原爆投下についても、人類すべてが同じように捉えているわけではありません。アメリカでは、今でも過半数の人が原爆投下は正しかったと考えていると言われています。なかには原爆投下を称賛する人さえいます。アメリカ政府は原爆ドームを世界文化遺産に登録することに強く反対しました。世界には原爆ドームの保存を快く思わない人もいるでしょう。そんな原爆ドームを「人類共通の平和記念碑」と呼ぶことは、果たして妥当でしょうか。原爆ドームの存在そのものが新たな対立を生むのなら、原爆ドームは、今なお戦争の象徴であり、戦争の中心なのかもしれません。

 

原爆ドームは、かつて巨大な暴力の中心となった場所です。とてつもない暴力が、そこから広がった中心地です。その余波は今も続いているかもしれません。犠牲となった人々の遺恨も極めて根深いものであったでしょう。そして、原爆ドームは、その遺恨が凝集する場所となり、遺恨が存続するための拠り所になっているかもしれません。平和記念碑と言うのなら、それは平和の象徴、平和の中心であるべきです。そこから平和の影響のみが放射されるべきです。それは、怒り、憎しみ、敵意、恨み、恐怖、悲しみ、苦しみなどとは無縁であるべきです。原爆ドームが平和の中心たり得ないのなら、すみやかに解体し、平和に向けた新たな取り組みを始めるのが賢明と思われます。

 

 

Jai Guru Dev

 

 

© Chihiro Kobayakawa 2021

 

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