マハリシの教えを学ぶ友への手紙(134

 

 

我慢と忍耐

 

 

ヴェーダの教えにおいては、忍耐の重要性が説かれています。たとえば、バガヴァッド・ギーターに以下のような言葉があります。

 

感覚器官が対象と接触することによって、冷たさと熱さ、快楽と苦痛の経験が生じる。それらは、束の間のものであり、来ては去りゆく。それらを忍耐強く堪えなさい。(バガヴァッド・ギーター2章14節)

 

Contacts of the senses with their objects, O son of Kunti, give rise to the experience of cold and heat, pleasure and pain. Transient, they come and go. Bear them patiently, O Bharata!"Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.93

 

或る国語辞典によれば、忍耐とは「辛さ・苦しさ・怒りなどをじっと耐え忍ぶこと、我慢すること」と定義されています。しかし、ヴェーダの教えが説く忍耐(ティティクシャー)はそのようなものではありません。マハリシによれば、「忍耐の本質は、あらゆる物事を来るままに受けとめること」です(バガヴァッド・ギーター注釈の付録、ヴェーダーンタ解説より)。あらゆる物事を来るままに受けとめるということは、物事に対して愛着や嫌悪の反応を起こさず、それらを静かに見守ることを意味します。それは、どんな物事も無条件に受け入れ、何の対処もしないということではありません。状況によっては、何らかの対処をしなければならない場合もあるでしょう。そして、事態に適切に対処するためには、まず事態を正しく把握する必要があります。そのためには、物事を来るままに受けとめる必要があります。愛着や嫌悪というフィルター越しに物事を見るならば、事態を正しく把握することはできず、適切に対処することはできません。快楽を経験しようが、苦痛を経験しようが、愛着や嫌悪の反応を起こさず、すべてを来るままに受けとめること、それが忍耐です。忍耐があればこそ、事態に対して適切に対処することができるのです。そのような意味での忍耐は、いわゆる我慢とは全く異なります。

 

「我慢」という言葉は仏教に由来すると言われています。元になったサンスクリット語はアスミ・マーナ(asmi mana)です。この場合のマーナとは「傲り」「思い上がり」のことであり、アスミ・マーナは「自尊心」「自惚れ」を意味します。それが「我慢」と漢訳され、そこから「我意を張る」「自分の考えを押し通す」などの意味が派生し、現在の「我慢」の意味に転じていったとされています。ヴェーダの教えにおけるアハンカーラ(行為主体としての「私」)も「我慢」と漢訳されたようです。このように、元来の「我慢」は、私たちがよく耳にする「我慢」とは意味が異なっていました。元来の「我慢」は捨てられるべきものですが、世間で言われる「我慢」は一般的に良いこととされています。しかし、本当に我慢するのは良いことでしょうか。語源が示唆しているように、我慢の根底には高慢な自我があるのではないでしょうか。

 

我慢の本質は抑制・抑圧です。たとえば、快楽を経験したいという願望を抑圧する、苦痛から逃れたいという願望を抑圧する、それが我慢です。我慢とは、「〜したいけれど、しないように努力する」「〜したくないけれど、するように努力する」ことです。そこには、「〜したいけれど〜すべきではない」などの葛藤があります。「〜したい」と「〜すべきではない」のせめぎ合いがあります。我慢することに成功するにせよ、あるいは失敗するにせよ、いずれにしても、我慢には葛藤があります。我慢とは、何かに打ち勝とうとする努力であり、その努力の主体は他ならぬ「我」です。我慢とは、高慢な「私」による力の行使です。

 

さて、「私」とは過去の経験の印象の集積に他なりません。過去の経験の印象が「私」を形成しています。経験の印象が精神に刻まれるのは、経験に際して中立平静を保つことができず、愛着あるいは嫌悪の想いを抱くからです。そうして経験される物事に圧倒され、経験の傷跡が精神に残されます。過去の経験の蓄積から成る「私」は、過去の経験の印象にもとづいて行為します。快楽の経験の印象は快楽に対する愛着を生じ、快楽を求める動きを生じます。苦痛の経験の印象は苦痛に対する嫌悪を生じ、苦痛から逃れようとする動きを生じます。こうして、愛着と嫌悪にもとづく行為が始まります。そして、その行為の結果として、再び経験の印象が精神に刻まれます。「私」が存続するかぎり、この循環は延々と続きます。

 

「私」は、経験される物事を、愛着する快楽と嫌悪する苦痛という物差しで測ります。ですから、「私」は経験される物事を来るままに受けとめることができません。物事をありのままに見ることができません。それゆえ、「私」にとって忍耐は不可能です。「私」は何かを我慢することはできるかもしれませんが、忍耐を持つことはできません。世間で言われる忍耐も「私」による忍耐にすぎず、それは本当は我慢であって忍耐ではありません。「私」があるとき忍耐はありません。あらゆる物事を来るままに受けとめるという忍耐は、無私でなければあり得ないのです。

 

我慢と忍耐の本質をこのように理解するならば、両者が全く異なるものであるのは明らかです。我慢は忍耐が欠如しているからこそ成立し得るものです。

 

我慢には限界がありますが、忍耐に限界はありません。いつまで我慢すればよいということはあっても、忍耐に期限はありません。忍耐は常に必要であり、忍耐に終わりはありません。

 

我慢するしないを決めるのは「私」です。我慢するのも「私」ですし、我慢せずしたいようにするのも「私」です。しかし、忍耐は「私」の意志に依存するものではありません。忍耐においては「私」の出る幕はありません。「私」がすることはすべて忍耐を妨げます。

 

もちろん、不適切な想念が生じたときに、それらに従って行動するのは賢明ではなく、衝動を我慢しなくてはならないこともあるでしょう。我慢せずに何でもしたいようにすればよいというものではありません。ですが、我慢は葛藤であり、我慢の継続には心理的なエネルギーの消耗が伴うので、長く我慢し続けるのは困難です。我慢には必ず反動の余地があります。しかし、忍耐に反動はあり得ません。たとえ不適切な想念が生じたとしても、それらを来るままに受けとめるならば、その想念は行動に発展するための力を得ることができず、自然に消滅するはずです。逆に、不適切な想念を抑え込もうとするならば、それはかえって助長されるでしょう。マハリシによれば、不適切な想念に対する武器となるのは、受容も拒絶もせず中立的であること(超然たる無関心)です。この中立的な態度は忍耐と言い換えることができます。

 

忍耐は闘いではありません。忍耐に敵は存在しません。しかし、不適切な想念に対して我慢をもって闘おうとするならば、その闘いには終わりがないでしょう。我慢とは闘いに他なりません。勝利することもあれば、敗北することもあります。たとえ勝利することができたとしても、抑え込まれた敵は力を蓄え、いつかまた襲ってくるでしょう。我慢に完全な勝利はなく、平安はありません。

 

忍耐においては、何を経験しようとも精神のバランスが保たれます。忍耐とは、経験の圧力を受けとめ、精神のバランスを保つべく持ち堪える(もちこたえる)ことです。快楽や苦痛を経験しても愛着にも嫌悪にも傾かない、それが忍耐です。何かを我慢したり我慢しなかったりする「私」は精神のバランスを保つことができません。我慢を武器に闘う「私」は、実際に経験される快楽と苦痛、あるいは予期される快楽と苦痛によって大きく揺れ動き、極めて不安定です。

 

マハリシは、超越的な至福意識にもとづく永遠の満足がないかぎり、精神のバランスを保つことはできない、と語っています(バガヴァド・ギーター注釈2章48節)。つまり、絶対的な至福意識を欠いているかぎり忍耐は不可能である、ということになります。辛い事を経験しても、喜ばしい事を経験しても、それらに動じることなく精神のバランスが保たれるのは、至福意識にもとづく内なる満足があるからです。至福意識に確立している精神にとっては、快楽や苦痛の経験は取るに足りない些事にすぎないため、それらによって精神のバランスが乱されることはありません。ゆえに、忍耐の基礎は絶対的な至福意識です。しかし、我慢の主体である「私」があるなら、至福意識はありません。「私」の存在は、すなわち至福意識の欠如を意味します。忍耐の必要を説くヴェーダの教えは、我慢の領域を超越し至福意識に確立して生きることを求めているのです。

 

 

Jai Guru Dev

 

 

© Chihiro Kobayakawa 2021

 

【ホームページ】 【目次】 【前の手紙】 【次の手紙】

 

【購読料・寄付について】

 

 

inserted by FC2 system