マハリシの教えを学ぶ友への手紙(2

 

 

教えと解釈

 

 

(一)

 

マハリシの教えを学ぶ人のなかには、教えの言葉を解釈することを嫌い、解釈は避けるべきだと考える人もいるようです。そして、教えの言葉をどのように解釈しようが、それは個人的な解釈でしかないので、それを他の人と共有する必要はない、だから教えについて議論する必要はない、そう考える人もいるようです。しかし、学び手である私たちはみな、教えの言葉を自分なりに解釈しているのではないでしょうか。解釈を避けるべきだと言う人自身も、やはり教えを自分なりに解釈しているはずですし、無意識のうちに自分勝手な解釈に固執しているということさえあるかもしれません。にもかかわらず、解釈することを毛嫌いし、自分はいかなる解釈も加えていないと思い込むのは、きわめて危険なことです。

 

確かに、誤解は否定されるべきです。間違った解釈は否定すべきです。教えの言葉を自分勝手に解釈し、教えを歪曲することは正しいことではありません。しかし、それは、解釈が間違っているからであって、解釈すること自体が間違いであるとは言えません。言葉の意味を正しく理解するには、言葉を正しく解釈しなければなりません。

 

インドの或る聖者の少年時代の出来事を伝える、こんな逸話があります。

 

* * *

 

或るグルのもとに歳若き少年の弟子がいた。少年がアシュラムに加わったのは最近の事であった。或るとき少年は、アシュラムとは別の場所で修行するようにとの指示をグルから受けた。以来、少年は人里離れた洞窟を住まいとし、週に一度だけアシュラムに戻ることになった。そんな日々が続くなか、一人の長老の弟子が少年のもとへと遣わされた。「そちらに私が住むことのできる空いている洞窟はあるか?」というグルの伝言を伝えるためであった。長老が伝言を伝えると、それに対する少年の返事は、空いている洞窟は無い、というものだった。少年の返事を聞いた長老は、少年の失礼な物言いに怒りを覚えながらも、それをなんとか抑え、次のように言って少年をたしなめた。

 

「弟子たる者はグルの御意向に沿うように意を尽くさねばならない。君はグルに対する言葉づかいを心得ていないようだ。君の返事はマハラジの不興を買い、マハラジは君を弟子とは認めなくなるだろう。私は自分が見たとおりにマハラジに報告しなければならない。ここには空いている洞窟がたくさんあるし、いつでもマハラジが訪問し滞在なさることができるではないか」

 

すると、少年は次のように答えた。

 

「私は年長者である貴兄を尊敬していますし、マハラジに対する貴兄の献身的な態度と深い学識も尊敬しています。しかし、今は使者として来られたのですから、是非とも私の返事をそのままマハラジにお伝えください。『ここには空いている洞窟は一つもありません』と伝えてください。そう伝えて下さったあと、ご自分で仰りたいことがあれば仰って下さい。しかし、私の返事は、私が言ったとおりに伝えてほしいのです」

 

アシュラムに戻った長老は、少年の返事をありのままにグルに伝えた。それを聞いたグルは何も言わなかったが、弟子たちは少年の無礼な態度に驚き、今度アシュラムに少年が戻ったとき少年は厳しく叱責されるだろう、と考えた。そして、弟子たちは口々に少年を非難した。

 

少年がアシュラムに戻って来たとき、アシュラムには、これから少年の身に起こるはずの事件を期待することから生じた興奮が満ちていた。いつものようにグルの講話を聞くために皆が一堂に会したとき、一人の弟子がグルに尋ねた。

 

「グルを侮辱した弟子には、どのような罰が与えられるべきでしょうか?」

 

グルは、質問の主旨が明瞭ではない、もっと具体的に話したらどうか、と言った。すると弟子は、洞窟の一件を詳しく語り、グルを侮辱した弟子はどうすればその罪を洗い流すことができるのか、そのような弟子はどのように罰せられるべきなのか、と具体的に尋ねた。グルが少年のほうを見て、「何か言いたいことはあるかね?」と尋ねると、少年は「確かに私はそのように言いました。それは事実です。しかし、空いている洞窟が一つもないというのもまた事実です」と説明した。それを聞いた長老は「向かい側にあった洞窟は空いていたではないか、道を曲がったところにある洞窟も空いていたではないか」と問いただした。そんなやりとりを聞いていたグルは少年に向かってこう言った。

 

「どういうことか、皆に説明してやったらどうだね」

 

「しかし、これはマハラジと私とのあいだの事柄です。他の皆さんに説明するような事ではないと思います」

 

「よろしい。では、お前は私に向かって話せばよかろう。他の者たちが聞きたいというのであれば、勝手に聞かせておけばよかろう」

 

こうグルに言われて、しぶしぶ少年は事の真相を次のように語り始めた。

 

「私が理解しているかぎりでは、マハラジは石や土で出来た家に住むお方ではありません。マハラジは弟子の心のなかに住んでおられるのです。私の心のなかの空間はみな既にマハラジによって満たされています。マハラジに帰依したあの日、私の心は、それまでの詰めものが空っぽになり、マハラジへの愛でいっぱいになりました。ですから、ここには空きはまったくありません。あの場所については、マハラジは最初から空いている洞窟があることをご存じでしたから、あそこに滞在なさりたいのであれば、私にお尋ねになることなくお出でになられたでしょう。では、なぜ、私に尋ねられたのか。私は、マハラジが私の心のなかに空いた空間がまだ残っているのかお尋ねになっている、そう理解したのです。ですから、どの場所も一杯で空いている場所は一つもない、とお答えしたのです」

 

こう話し終えると、少年は口をつぐみ、それ以上は何も語らなかった。

 

少年の話を聞いた弟子たちは皆、少年を不敬者呼ばわりしたことを恥じた。そして、他の誰よりも弟子と呼ぶにふさわしい人間がここにいる、ということを悟ったのである。

 

* * *

 

この話に登場する長老ならば、グルの言葉はそのまま受け取るべきであって自己流に解釈すべきではない、そう言ったかもしれません。しかし、字面の意味にこだわる長老は、字義どおりの意味がすべてである、という考えをよりどころにして、グルの言葉を字義どおりに解釈しており、しかも自分が自己流の解釈にとらわれているという事実に気づいていません。自分はグルの言葉を素直に聞いている、と思い込んでいます。ですから、少年がグルの言葉を素直に聞かず、グルの意向に背いたことに怒りを覚えます。グルの言うとおりにしない者には弟子たる資格はない。そんな無礼が許されるはずがない。グルのお望みは明らかではないか。グルは、自分の住める洞窟はないか、と尋ねておられる。そして、ここには空いている洞窟はいくらでもある。にもかかわらず、無い、とはどういうことか。グルの言葉は、素直に聞かれるべきであって、ひねくれた解釈を加えるべきではない。この少年はグルの言葉の聞き方を心得ていないようだ。まだ子供だから仕方がないかもしれないが、それにしても、このような振る舞いが弟子として許されるはずがない。長老は、そう考えます。

 

しかし、この逸話が伝えているように、ひねくれていたのは長老たちの方であって、少年の方ではありませんでした。長老をはじめとする弟子たちは、表向きはグルに従順であるかのように振る舞っていますが、実は自分の解釈に固執しているので、グルの言葉を素直に聞くことができず、グルの意向を推し量ることができません。少年は、伝言を通じて、グルの言わんとしていることを即座に理解しました。伝言された言葉を字義どおりに解釈するのではなく、言葉の奥にグルの意図を読み取りました。長老のように字義どおりの意味にとらわれていれば、あるいは、解釈は悪であるという先入観にとらわれていれば、伝言された言葉の意味を理解することはできなかったでしょう。少年が伝言された言葉をどのように解釈したのかは、のちにアシュラムで明らかにされました。少年の解釈を聞いた弟子たちは、自分がいかに偏った解釈に陥っていたか気づいたでしょうか。グルの言葉を素直に聞かず自分勝手に解釈していたのは少年の方ではなく自分の方だった、と気づいたでしょうか。

 

言葉を文字どおりに受け取ることが、解釈をしないということなのではありません。文字どおりに受け取ることもまた一つの解釈です。自分はいっさい解釈を加えていないと言い張っても、言葉を聞いて何らかの意味に取ること自体が解釈するという行為にほかならないのです。言葉の意味を理解するとき、私たちは必ず解釈をおこないます。ふつう、言葉は、言葉そのもの(語の音や文字の形)を伝達するためにあるのではなく、言葉に託された意味を伝達するためにあります。言葉は意味を伝達する媒介にすぎません。伝達されるのは、言葉を介して伝達されようとしている意味内容であって、言葉そのものではありません。語り手は、物事を言葉を用いて相手に伝えようとします。伝えたい物事を言葉に託します。言葉に置き換えます。逆に、聞き手は、その言葉から、語り手が伝えようとした物事を読み取らねばなりません。言葉に何が託されたのか、言葉が何を指し示しているのか、それを探らねばなりません。つまり、言葉の意味は、その言葉が何を指し示しているのかを判断する行為、すなわち解釈なしには把握することができないのです。言葉は、解釈という行為がなければ、ただの音声として聞き取られるか、文字の形として見られるだけです。

 

言葉を聞いたり見たりするという行為は、花を見るという行為とは違います。言葉を聞いたり見たりするときには、言葉の意味を理解する必要があります。しかし、花を見るときには、花の意味を理解する必要はありません。花そのものには何の意味もありません。花は何かを指示しているわけではないので、花を見る時には、ただ見るだけで十分です。事実としての物事は、じかに触れ、じかに知覚することによって理解されます。しかし、語られた言葉を理解するという場合は、言葉そのものを理解するのではなく、言葉に託された意味を理解するのです。言葉の意味を理解するには、言葉が何を指しているのかを探らねばなりません。言葉の意味を探り、言葉とその指示するものとを結びつけること、それが解釈です。かりに解釈が排除されたならば、言葉の意味は決して把握されないでしょう。花などの現実は、媒介するものなしに知覚することができるかもしれませんが、言葉をありのままに知覚したとしても、言葉の意味は決して理解されることがありません。そこに解釈という行為が加わらなければ、言葉と意味内容を結びつけることはできないのです。

 

確かに、教えの言葉を聞く私たちは皆、教えの言葉を自分勝手に解釈しているかもしれません。そして、自分勝手な解釈を教えの真意であるかのように錯覚する人もいるかもしれません。ですが、だからと言って、解釈すること自体が間違いである、ということにはなりません。間違った解釈は正すべきですが、解釈すべてを排除しようとするのは、あまりにも愚かなことです。自分の解釈が間違っているのなら、そして解釈の誤りに気づいたのなら、正せばよいのです。そして、必要ならば、他の人の解釈の誤りを指摘すればよいのです。教えの言葉を解釈することは避けるべきだと思っているかぎり、教えの言葉の意味を理解することはできません。解釈することを毛嫌いし、解釈を排除しようと努めるならば、教えは深みのない言葉の羅列となるだけでしょう。

 

(二)

 

教えの翻訳にかかわっていた或る人が「教えを翻訳するにあたっては解釈は排除すべきだ」と言ったことがあるそうです。このような発言をした人の本意をどう解釈すればよいのか分かりませんが、この言明には疑問を感じずにはいられません。本当に、翻訳においては解釈を排除すべきなのでしょうか。そもそも、解釈することなしに翻訳することは可能でしょうか。翻訳とは、訳者の解釈を基礎にしておこなわれる仕事です。自分は辞書に載っている訳語を機械的に取っただけで、解釈は一切していない、などと言う訳者がいるとは考えられません。どんな語句の場合でも、どの訳語を選ぶかは訳者が決めることです。英和辞典を一番のよりどころにして翻訳の仕事をすると言う人でも、訳語を決めるときには、訳語の候補のなかから最適と思われるものを選択しているはずです。候補となる訳語のうちから或るものを取り他のものを捨てるには、この場合この語はこういう意味を表しているにちがいない、という解釈がなくてはなりません。解釈をしないで訳語を選択するのは不可能です。

 

「教えを翻訳するにあたっては解釈は排除すべきだ」という主張は、主観的な解釈を排除すれば原文に忠実な翻訳が生まれるはずだ、という発想を土台にしていると思われます。そう主張した人は、主観的な解釈を排した忠実な翻訳の模範として、コンピューター翻訳のようなものを想像していたのかもしれません。しかし、コンピューターに翻訳させれば、主観的な解釈を加えない翻訳ができるだろう、というのはまったくの幻想です。なぜなら、機械といえども解釈を抜きにしては翻訳という仕事を遂行できないからです。機械でさえ主観を持っており、独自の解釈をします。人間はコンピューターに原文を与え、翻訳を命じ、訳文を得ることができます。利用者にはコンピューターがどんな処理を実行しているか分からなくとも、コンピューターの内部では、与えられた原文を目標言語に置換するための膨大な処理がおこなわれています。そして、コンピューターが翻訳処理を実行することができるのは、原文をどのように解釈し、どのような訳語を選択し、どのように訳文を構成すべきか、という論理があらかじめ組み込まれているからです。コンピューターは、あらかじめ与えられた解釈の論理にしたがって、原文を訳文へと置換してゆきます。コンピューターは、プログラマーから与えられた解釈の論理にしたがって作動することしかできません。何らかの論理をあらかじめ与えておかなければ、コンピューターは作動することができないのです。翻訳という情報処理をおこなう場合には、解釈プログラムを与えておかねばなりません。つまり、コンピューター翻訳も、人間がコンピューターに与える主観的な解釈の積み重ねでしかないのです。

 

翻訳とは、テキストの解釈を基礎にしてなされる行為です。解釈には正しい解釈もあれば間違った解釈もあるでしょうから、原文の教えと翻訳された教えとでは、言わんとしていることが異なる場合もあります。訳者が原文の教えを間違って解釈すれば、元の教えとは異なるものが教えとして伝えられます。原文で学ぶ人々は、マハリシの言葉に直接当たるかぎりは、マハリシの言葉をそのまま受け取ることができますが、翻訳をとおして学ぶ私たち日本人は、日本語で学ぶ以上、マハリシの言葉に直接触れることはできません。日本語で学ぶ教えは、訳者という媒介を経て伝えられる教えです。ですから、訳者という伝達者が、その伝達の仕方を間違えば、つまり誤訳すれば、日本語で学ぶ人々は最初から歪められた教えを学ぶことになります。歪められた教えに触れる機会が、原文で学ぶ人々よりも一段階早く訪れるのです。翻訳によって学び、翻訳によって教えるしかない私たち日本人は、翻訳について真剣に考えるべきであり、翻訳による教えの歪曲という問題を明瞭に自覚していなくてはなりません。私たち日本人は、翻訳で学んでいるという事実、あるいは翻訳で教えているという事実を忘れるべきではありません。そして、翻訳は訳者による解釈の表明にすぎず、訳者の解釈には誤りがあるかもしれない、ということを決して忘れるべきではないと思います。

 

翻訳された教えは元の教えではありません。いつか誰かが訳して作成したものを元の教えと同一だと信じ込むのは危険です。翻訳はあくまでも翻訳であり、翻訳された教えは訳者による一解釈にすぎません。訳者の解釈が正しいという保証は全くありません。確かに、日本語で教えを学ぶ人は訳者に頼るしかないかもしれませんが、訳者の翻訳が正しいと信じる必要はありません。たとえば、医者を信用しなければ治療を受けることはできませんが、だからといって医者は間違いを犯さないと信じる必要はないのと同じです。医者も、ときには誤りを犯すかもしれません。患者は、治療の方針や具体的な方法についての説明を求め、理解したうえで治療を依頼すべきです。それと同じように、翻訳でしか学べない人は、訳者の仕事を利用する必要はあっても、訳者に自分の運命をゆだねるべきではありません。翻訳で学んだり教えたりするすべての人が、この点をはっきりと自覚すべきだと思います。

 

これも人づてに聞いた話ですが、マハリシは翻訳について、「翻訳は訳者の意識によって規定されます」「改善し続けなさい」と助言したことがあるそうです。いずれも常識的な部類の話ですが、この指摘は重要だと思われます。マハリシの言葉であれ、誰の言葉であれ、私たちは、それを完全に理解できるはずもなく、不完全な理解を土台にしてなされる翻訳が完璧であるはずもありません。訳者は、自分自身が解釈したとおりに翻訳するのですから、訳者がテキストを正しく解釈できないかぎり、正しい翻訳は生まれません。訳者の解釈(理解)は訳者自身の意識によって規定されます。

 

しかし、テキスト解釈は訳者の意識によって規定されるものであり、解釈は人それぞれであるといっても、誤解だらけの翻訳でかまわないということにはなりません。だからこそ、翻訳を「改善し続けなさい」という助言もつけ加えられたのでしょう。たとえ、教えを正しく解釈することができず、正しく翻訳することができなかったとしても、翻訳をたえず改善し続けることはできるはずですし、また、そうすべきなのです。そして、「翻訳は訳者の意識によって規定されます」と述べたうえで、「改善し続けなさい」という助言がなされたのですから、改善すべきは教えの解釈であって、語学的な翻訳技術のことではないはずです。ならば、改善し続けよ、というマハリシの助言は、なにも翻訳にかかわる者だけに向けられたものではなく、教えを学ぶ者全員に向けられたものだと見なすこともできると思います。つまり、教えの解釈を改め続けよ、誤解を正し続けよ、という意味に拡大解釈することもできるのではないでしょうか。

 

(三)

 

ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(5.2)のなかに、こんな話があります。プラジャーパティ(造物主)が神と人間と魔神のそれぞれから個別に教えを乞われるのですが、プラジャーパティは、三者に対して全く同じ教えの言葉を与えます。すると、面白いことに、三者に与えられた言葉は同一であるにもかかわらず、それぞれが三者三様に解釈し、プラジャーパティの意図するとおりの意味を正しく理解した、と言うのです。教えを乞われたプラジャーパティが与えたのは「ダ(da)」という一音だけです。そして、神はそれを「自己を律せよ(daamyata)」という意味に解釈しました。人間はそれを「分かち与えよ(datta)」という意味に解釈し、魔神は「慈悲深くあれ(dayadhvam)」という意味に解釈したのです。「ダ」という言葉は、聞き手が主観的に解釈しなければ意味を成しません。プラジャーパティが一音による教え、しかも聞き手によって異なる意味を持つ教えを説くことができたのは、言葉の意味は固定的なものではなく、聞き手の主観的な解釈を経て初めて成立するものだからです。

 

私たちは、教えの言葉の意味が、何か固定的なものとして、語り手や聞き手から独立して存在しているかのように考えがちです。だからこそ、解釈を加えなければ正しい意味がおのずと浮かび上がってくるにちがいない、という発想が生まれるのではないでしょうか。まるで問題集の解答欄のように、どこかに正解が存在しており、それを参照すれば済む、という考えが生まれるのではないでしょうか。

 

しかし、教えの言葉の意味は、それ自体で独立して存在しているのではなく、語り手や聞き手との関係において成立します。言葉の意味は、決して固定的なものではなく、言葉が語られたり聞かれたりする度ごとに成立するのです。語り手にとっては、自身が語る言葉の意味は、みずからが意図するものとして確定しているかもしれません。しかし、それは、語り手において、語られる時にのみ成立するのです。同じ語り手が同じ言葉を語ったとしても、相手や文脈が異なれば、言葉の意味は異なるかもしれません。そして、聞き手にとっては、その言葉を聞く時に、聞き手においてのみ成立する意味があります。ですから、聞き手の数だけ意味が存在するでしょう。にもかかわらず、私たちは、この事実を理解しないで、唯一の意味(正解)が語り手や聞き手から独立して存在しているかのように考えがちです。しかし、言葉の意味は、語り手あるいは聞き手の意識の内にしか成立しません。問題集の解答欄のように、正解がどこかに記載されているということはありません。ですから、教えの言葉の意味をどこかから取得する、ということはできないのです。「知識(理解)は意識において構成される」と言われるように、理解は自分自身の意識の内にしか生まれません。聞き手の主観の働きを排除して言葉の意味を理解するのは不可能です。理解はあくまでも主観的であり、主観を排した客観的な理解などあり得ません。

 

ですから、主観的な解釈を排除すれば教えの言葉の真意が浮かび上がって来るだろう、という考えは幻想にすぎないのです。確かに、自分に都合のよいように解釈したり、自分の意見や先入観に合わせて解釈したりすることは、言葉の意味を理解するうえで妨げになります。しかし、マハリシがよく言う「無邪気に聞く」ということは、先入観を排して聞く、無垢の耳で聞くということであって、解釈せずに聞くということではないと思います。かりに、無邪気であるとは解釈をしないことであるとするならば、赤ん坊が最も無邪気な聞き手であるということになります。赤ん坊に教えの言葉を聞かせれば、赤ん坊にも言葉が聞こえるでしょうが、赤ん坊は解釈をしないが故に言葉の意味を理解することもできません。

 

解釈を排除しようとする態度は、知的理解の軽視につながり、結局は、無理解を志向することになります。教えの言葉は理解しがたいから今は理解できなくてもかまわない、そのうち理解できる時が来るにちがいない、理解できないのだから丸のみするのが一番いい、そういう発想を生むでしょう。そして、教えの言葉の意味が分からぬまま、ただ記憶したり再生したりする、ということがくりかえされます。それでは、まるで機械であり、英知(intelligence)のかけらもありません。創造的な英知を開花させるはずの教えを学ぶ者が、英知を失い、ますます機械的になってゆくとすれば、それは何とも滑稽なことではないでしょうか。

 

(四)

 

もちろん、解釈には解釈の持ち場があり、解釈が生むのは知的理解にすぎない、という点も決して忘れるべきではありません。解釈によって言葉の意味を知的に理解するということと、言葉が指示している物事を直観的に理解するということは、まったく別の事柄です。解釈が生むのはあくまでも知的理解であって、直接経験による直観的理解ではありません。先程のウパニシャッドの話で言えば、「ダ」という一音による教えを聞いて、「分かち与えよ」という意味に解釈することができたとしても、「分かち与える」とはどういうことなのかを直観的に理解しているかどうかは別問題です。

 

日本語の辞書によれば、解釈とは「文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること、また、それを説明すること」「他人の文章や言動などの意味を判断し、理解すること」などとなっていますが、英語の interpret(解釈する・解説する・説明する・翻訳する)という語は、「〜の間において価値づけする」「〜と〜とを等価とする」という語源を持っています。つまり、解釈とは、或る物事を別の物事と同等であると判断する、等価の物事に置き換えるということです。「花」という言葉を聞いて、それが事実としての花と同等であると判断する、または、花について語るとき、事実としての花が「花」という言葉と同等であると判断する、それが解釈です。解釈とは、二つの物事が同等であると判断し、翻訳置換することにほかなりません。そして、判断は知性(intellect)の仕事ですから、解釈によって得られる理解は知的理解(intellectual understanding)と呼ぶことができます。

 

教えの言葉を解釈するということは、その言葉が何を指示しているのかを判断し、知的に理解するということです。しかし、言葉を知的に理解するということと、言葉が指示している物事自体を経験的に知るということは、まったくの別事です。現物の花を見たことがない人は、花に関する説明をいくら聞いても、花が何であるかを直観的に知ることはできません。説明に用いられる言葉を合理的に解釈し、その意味を知的に理解できたとしても、現実の花を知らない以上、できるのは花についての想像を詳細化することだけです。想像された花は観念としての花であって事実としての花ではありません。真の理解とは事実を直観することであって、言葉をたよりに観念をつくりあげることではありません。マハリシの教えに沿って言えば、花を理解するということ、あるいは花を知るということは、花を全的に知覚すること、完全に把握することです。表面的な色や形を知覚するだけではなく、色や形という属性を持たない樹液のレベルをも、完全に知覚することです。花を理解するには花を見る必要があります。花を知覚する必要があります。花を理解するということは、花の全容を知覚することであり、言葉をたよりにして知的に理解することではありません。

 

教えのなかには、学び手にとっては観念でしかない物事についての記述が頻繁に登場します。たとえば、教えはブラフマンについて語ります。ブラフマンは一切の言説を超えており、ブラフマンとは何であるかを定義するのは不可能である、と言いつつ、それでも教えは言葉を尽くしてブラフマンを明らかにしようとしています。既知の概念を用いたり、身近な譬えを使ったりしながら、ブラフマンについて多くを語っています。しかし、ブラフマンについての言明を聞き、その言葉を正しく解釈しようと努め、どれほど知的理解を深めたとしても、ブラフマンそのものを理解したことにはなりません。ブラフマンを理解するということは、ブラフマンを直覚する(realize 経験的に知る)ということであって、ブラフマンについての記述を知的に理解するということとは違います。ウパニシャッドなどを研究し、ブラフマンについての知的理解を深めたとしても、ブラフマンを理解したことにはなりません。

 

ブラフマンのように自身にとって未知であることが明らかな場合は、ブラフマンについての説明を聞いただけではブラフマンを本当に理解することはできない、という点を忘れずにいられるかもしれません。しかし、気をつけなくてはならないのは、語られている内容が自身にとって未知であることが自明でないような場合です。幸か不幸か、教えは私たちの知っている言葉で語られます。なじみのある言葉で語られます。私たちが教えの言葉を少なくとも知的に理解することができるのは、言葉の意味を一応は理解することができるからです。辞書を引けば言葉の意味を理解することができるからです。しかし、私たちは、辞書に記載されている意味を知っているというだけで、言葉が言及している物事自体を理解できたと錯覚しがちです。私たちは、自分の経験に照らし合わせたり、記憶として蓄えられた概念を駆使したりして教えの言葉を解釈するので、自身にとって未知の物事が語られているにもかかわらず、それを似て非なる既知の物事と取り違えてしまいます。

 

たとえば、「至福」という言葉を聞くと、辞書にある語義をたよりに「この上もない幸福」のことだと解釈し、過去に経験した幸福のなかでも最上の幸福を思い浮かべ、自分もかつて至福を経験したことがある、などと考えます。教えが語る至福を知らない者は、至福とは何であるかを思考の働きによって想像することしかできません。現に永遠の至福意識を生きていない私たちにとっては、教えが語る至福は未知であるはずです。しかし、世間で言われるほどの至福ならば経験したことがあるので、自分も教えが語る至福を経験的に知っている、と勘違いするのです。

 

経験的に知っている物事について語られた言葉を聞けば、その言葉が何を指示しているのかを正しく解釈することができ、語り手と同じ理解を共有することができるかもしれません。しかし、経験的に知らない物事について語られた言葉を聞く場合には、私たちは言葉をたよりに概念的な理解を得ることしかできません。言及されている物事についての観念を組み立てることしかできません。観念はあくまでも思考の産物であり、現実ではありません。ゆえに、観念的な理解は現実的な理解ではありません。語られている内容が自分にとって未知であるならば、その言葉をどのように解釈したとしても、その解釈はどこまでも不完全であり、正しいものではあり得ません。なぜなら、言葉が指示している物事を現実には知らないので、言葉と言葉の指示物とを正しく結びつけることができないからです。ということは、教えの言葉を正しく解釈するためには、語られている物事についての直観的理解が最初からなければならない、ということになりそうです。つまり、正しい解釈が理解を生むのではなく、理解があるときにだけ正しい解釈が生まれる、そういうことになります。

 

そうであるならば、やはり解釈には価値がない、知的理解には意味がないではないか、そう考える人もいるかもしれません。しかし、語られている内容が未知のものであったとしても、教えを知的に理解することは重要ではないでしょうか。直観的理解がすべてであり、知的理解にはまったく価値がない、というのであれば、教えは聞き手が知らない物事については沈黙を守ったはずです。しかし、教えは、沈黙を破っています。知的に理解することにも価値があるからこそ、未知なる物事についても語られているのではないでしょうか。マハリシも、教えを知的に理解することの重要性をくりかえし語っています。知的理解には知的理解の役割があります。知的理解には価値がないと決めつけ、知的理解を軽視すべきではありません。知的理解をどれだけ充実させたとしても、それが直観的な理解に発展するわけではない、ということを踏まえたうえで、私たちは合理的で妥当な解釈をする必要があると思います。未知を未知としたうえで、先入観を排し、合理的に解釈する必要があると思います。

 

直観的な理解は人生を決定的に左右します。行為は理解にもとづくからです。しかし、人生の多くの局面において、私たちには理解が欠けています。理解を欠いたまま行為し続けています。直観的な理解が欠けているとき、私たちの人生を大きく左右するのは知的理解です。直観的な理解を欠く私たちは知的理解を基礎に生きており、知的理解が人生を導いています。ですから、教えが語る言葉を真に理解できなくとも、少なくとも妥当な解釈によって妥当な知的理解を得るということは、きわめて大切なことだと思われます。教えが語る内容を直観的に理解できていない以上、私たちは、自分の解釈に安住するのではなく、たえず解釈を改善し続ける必要があると思うのです。

 

 

Jai Guru Dev

 

 

© Chihiro Kobayakawa 2004

 

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