マハリシの教えを学ぶ友への手紙(1

 

 

教えと誤解

 

 

(一)

 

マハリシは、『バガヴァッド・ギーター注釈』の序文のなかで、教えが誤解されるのは避けがたいことである、と述べています。教師は教師自身の意識の水準から教えを語るのですが、生徒は自分の意識の水準でしか教えを受け取ることができません。そして、誤解の溝は時とともに広がってゆきます。そうマハリシは言います。では、マハリシの教えについてはどうでしょうか。マハリシの教えだけは例外と言えるでしょうか。もちろん、そんな楽観は許されません。無知の硬い岩は、マハリシの教えも簡単に打ち砕いてしまうでしょう。マハリシがブッダやシャンカラを引き合いに出して教えの悲劇について語るのを聞いた私たちは、マハリシの教えもいつか同じ運命をたどるかもしれないが、それはもっと先の将来のことであり、自分以外の誰かが教えを誤解し誤った形で流布するからだ、などと考えるべきではありません。教えの誤解は今起こっているのであって、将来のことではないのです。しかも、教えを打ち砕く硬い岩の役割を演じているのは、他の誰でもなく私たち自身ではないでしょうか。

 

教えを誤解している「私」は、自分が誤解しているという事実に気づきません。誤解とは誤った理解であり、単なる無理解とは違います。ここに誤解の危険があります。誤解している「私」は、自分が誤解しているとは気づかず、自分は理解できていると思い込みます。マハリシの教えに初めて触れた時からずいぶん時間のたった「私」は、自分もかなり理解を深めることができたと思い込み、自分は教えを誤解しているかもしれない、とは考えなくなります。そして、どこからともなく自惚れが忍びより、謙虚さを失い、学ぶことを忘れます。たっぷりの知識をため込むことの悦びを味わい、知識の蓄積が理解であると勘違いします。教えになじみを覚え、教えを明快に語れるようになったことで、理解が深まったと考えます。

 

教えを熱心に学んできた人のなかには、教えの言葉をそらんじて語ったり、解説したりできる人もいるかもしれません。教えの言葉の一つ一つの概念を明確に理解するまでに至った人もいるでしょう。しかし、だからといって、自分は教えを深く理解していると考えるならば、それはとんでもない思い違いかもしれません。自分は教えを理解していると考えた途端に、学びは終わるのではないでしょうか。教えを理解できているという思い込みは、精神を鈍くし、学ぶことを忘れさせます。学ぶことを忘れた生徒は、教えに導かれるというより、みずから作りあげた誤解によって導かれます。

 

もちろん、教えは誤解を生むためにあるわけではありません。しかし、世の常として、教えに触れる者はみずから勝手な誤解を作りあげ、それに縛られます。チャーンドーギャ・ウパニシャッド(8.7)のなかにも、生徒が教えを誤解する様子を描いた、こんな話があります。

 

* * *

 

プラジャーパティ(造物主)はアートマン(自己)について次のように説いていた。

 

「罪悪から解放され、老いを知らず、死を知らず、憂いを知らず、飢えも渇きも知らないアートマン。真の願望をいだき、真の意志をもつアートマン。そのようなアートマンを探究すべきであり、理解したいと願うべきである。アートマンを見出し、アートマンを理解する者は、一切の世界を獲得し、あらゆる願望が実現する」

 

この言葉を聞いたデーヴァ(神々)とアスラ(魔神たち)は、プラジャーパティから教えを受けたいと望み、それぞれの代表としてインドラとヴィローチャナを送り込んだ。そして、二人がプラジャーパティのもとで三十二年のあいだ修行を続けた後、プラジャーパティが二人にこう尋ねた。

 

「どういう目的があって、お前たち二人はここに留まっているのか」

 

二人は答えた。

 

「『罪悪から解放され、老いを知らず、死を知らず、憂いを知らず、飢えも渇きも知らないアートマン。真の願望をいだき、真の意志をもつアートマン。そのようなアートマンを探究すべきであり、理解したいと願うべきである。アートマンを見出し、アートマンを理解する者は、一切の世界を獲得し、あらゆる願望が実現する』という尊師の言葉が世間に伝わっています。そのアートマンのことを知りたくて、私たちはここに留まっているのです」

 

それを聞いたプラジャーパティは次のように言った。

 

「眼のなかに見られるプルシャ(人)、これがアートマンである。これが不死なるものであり、恐怖なきものである。これがブラフマンである」

 

「では尊師さま、水に映っている者や鏡に映っている者はいったい何者でしょうか」

 

プラジャーパティは次のように答えた。

 

「この同一なるものが、それらすべてにおいて見られるのである」

 

続けてプラジャーパティは次のように言った。

 

「水を満たした水盤に映る自分の姿を見てみよ。そして、アートマンについて理解できないことがあれば、それを私に告げよ」

 

二人は言われたとおりに水を満たした水盤のなかを見た。

 

「何が見えるか」

 

「尊師さま、アートマン(身体)が、髪の毛や爪にいたるまで、そっくり映し出されているのが見えます」

 

「今度は、装飾品を身につけ、美しい衣服をまとい、容姿を整えて、水を満たした水盤のなかを観察してみるがいい」

 

二人は言われたとおりにして再び水盤のなかを見た。

 

「何が見えるか」

 

「尊師さま、私たち自身が装飾品を身につけ、美しい衣服をまとい、容姿を整えているのとまったく同じように、水に映った姿も装飾品を身につけ、美しい衣服をまとい、容姿を整えております」

 

二人の答えを受けて、プラジャーパティは次のように語った。

 

「これがアートマンである。これが不死なるものであり、恐怖なきものである。これがブラフマンである」

 

師の教えを聞いた二人は満足して立ち去った。すると、二人が立ち去るのを見たプラジャーパティは、次のように独白する。

 

「二人はアートマンを理解せず、見出すこともできずに立ち去った。デーヴァにせよ、アスラにせよ、あのような教義を奉ずる者たちは破滅するだろう」

 

ヴィローチャナは、仲間のもとに帰り、仲間に教義を伝えた。しかし、インドラは、仲間のもとにたどり着く前に、次のような疑問を感じる。

 

「この身体が装飾品を身につけ、美しい衣服をまとい、容姿を整えていると、鏡のなかのアートマンも装飾品を身につけ、美しい衣服をまとい、容姿を整えている。だが、それと同様に、この身体が盲目であったり、足が不自由であったり、身体に障害があったりすると、鏡のなかのアートマンも盲目であったり、足が不自由であったり、身体に障害があったりするということになってしまう。この身体が消えてなくなれば、鏡のなかのアートマンも消えてなくなってしまう。この点で、どうも合点がゆかない」

 

この疑問を解消すべく、インドラは再びプラジャーパティのもとに戻ることにした。戻って来た理由を尋ねられたインドラは自分がいだいた疑問を説明する。すると、プラジャーパティは、こう答えた。

 

「まさしく、そのとおりである。その点について、そなたにさらに説明しよう。もう三十二年のあいだ、ここに留まって修行するがいい」

 

* * *

 

こうしてインドラは次の教えを受ける機会を得ます。さらに物語は続き、同様の展開がくりかえされます。二度目の修行期間を終えたのちに聞いた教えにもインドラは疑問を感じ、再び質問します。すると、また三十二年間の修行を命じられます。三度目の修行を終えたインドラは次の教えにも疑問を感じます。すると、こんどは五年間の修行を命じられ、その修行を終えたインドラに対して、プラジャーパティは再び教えを授けます。それが最後の教えとなり、物語はそこで完結しています。

 

この物語には、生徒が教師の言葉を誤解する様子が描かれています。生徒は、教師の言葉を文字どおりに、表面的に解釈し、教師の言葉を誤解します。また、教師が生徒の誤解を正そうとして、生徒に疑問をいだかせる機会を与えたとしても、誤解を固め始めた生徒は、誤解に気づくどころか、その機会を利用して誤解をいっそう強固なものにします。せっかく誤解に気づくための機会が与えられたとしても、それを活かすことができず、逆に誤解を確信にまで発展させるのです。

 

インドラとヴィローチャナは、アートマンに関する知識が得られたと思って満足し、師のもとを去ってゆきました。アートマンを理解しないまま、アートマンを理解したと思い込んでしまいました。ヴィローチャナは、自分の誤解を誤解だと気づかぬまま、それをアートマンに関する教えだとして仲間に伝えます。こうしてアスラのあいだには、身体がアートマンであるという誤解が広がります。しかし、インドラは、師の教えを何度も思いおこし考察を重ねてゆくなかで、どうも納得できない点を見出します。インドラがプラジャーパティのもとに戻って疑問をぶつけてみると、師は「そのとおりである」と言って疑問を歓迎しています。教えを誤解していながら、ヴィローチャナのように何の疑問も感じることがなければ、誤解が解かれることは永久にないでしょう。教えを学ぶ者にとって、疑問をいだくということ、そして素直に問うということは、きわめて重要なことではないでしょうか。『バガヴァッド・ギーター』のなかでも、アルジュナが要所要所で重要な疑問をクリシュナに投げかけており、マハリシは、もしもアルジュナの質問がなかったならばクリシュナの教えは完結していなかっただろう、と注釈しています。

 

プラジャーパティは、インドラとヴィローチャナが自分の言葉を誤解したという事実に気づいていながら、それを直接的には指摘しませんでした。「眼のなかに見られるプルシャ」という言葉を、インドラとヴィローチャナは「瞳に映る人の姿」のことだと誤解します。それで、「水に映っている者や鏡に映っている者」は何者なのか、という質問が問われたのです。プラジャーパティは、その誤解を直接正そうとはせず、間接的に暗示しようとしています。水に映る姿を観察させることで、誤解の矛盾に気づく機会を与えたのです。しかし、それでも彼らは自分たちが誤解しているということに気がつきませんでした。にもかかわらず、プラジャーパティは、あえて誤りを指摘せずに、「これがアートマンである。これが不死なるものであり、恐怖なきものである。これがブラフマンである」と応えています。もちろん、この言葉を聞いた二人が理解する「これ」は、プラジャーパティが指示している「これ」とは、まったく別物です。プラジャーパティは、その食い違いに気づいていながら、あえてそれを指摘していません。

 

教師としてのプラジャーパティは、一見すると不親切で厳しすぎるように見えますが、この物語は、教師と生徒のあるべき姿を伝えているのかもしれません。自分の誤解を誰かが正してくれるのを当てにしてはならない、教えを学ぶ者はみずから誤解に気づかねばならない、そうこの物語は示唆しているようです。教師としてできることには限界があります。理解そのものを生徒に直接与えてやることは、いかなる教師といえどもできません。理解するかどうかは生徒しだいです。教師は、生徒に学びの機会を提供し、学びの手助けをすることはできるかもしれませんが、理解そのものを与えることは決してできません。

 

かりに、教師が生徒の誤解を一つ一つ具体的に指摘したとしても、生徒が本当に誤解に気づくかどうかはあやしいものです。生徒は、誤解の指摘さえ誤解するかもしれません。また、教師があまりにも丁寧に生徒の誤解を解こうとすれば、生徒は教師に依存し、みずから学ぶ情熱を失うかもしれません。教師や誰かが自分に教えてくれることを期待し、受け身になるかもしれません。さらに言えば、生徒の誤解を一々指摘し続けること自体、切りのないことです。生徒は教師の言葉のすべてを誤解するかもしれないからです。ですから、教えをいかに誤解しようとも、それが誤解であると気づくのは学ぶ側の人間の仕事であり、教師はその手助けをすることしかできない、そう言えるのではないでしょうか。

 

(二)

 

暗闇が消えて無くなるためには光がなくてはならないように、誤解が解消されるためには真の理解が必要です。しかし、私たちにとってみれば、教えを理解するということは、ほとんど不可能と思われるほど困難だと感じられるかもしれません。たやすく理解することができるのであれば、人間の生活は現状とはまったく異なっていたはずです。この世には遠い昔から教えというものが存在します。そして、多くの人々が直接的あるいは間接的に教えに触れてきたはずです。しかし、人間は相も変わらず苦しみ続けており、悲惨な世界をつくり続けています。このことを見ても、教えを理解するのは、そうたやすい事でないのは明らかだと思われます。とは言え、誤解は誤解のままでいいということにはなりません。たとえ教えを理解することが困難であったとしても、少なくとも誤解に固執する状態に陥ることは防がなくてはなりません。誤解があったとしても、それを不安定なままにとどめておくことができれば、誤解に固執する羽目にならずに済むのではないでしょうか。誤解を確信にまで発展させるべきではありません。みずから仕掛けた誤解の罠にとらわれてしまった者がそこから抜け出すのは、きわめて困難だからです。

 

私たちは、教えの言葉をくりかえし聞いたり読んだりすることによって、教えを学びます。プラジャーパティの教えを学んだインドラが自分の理解に疑問を感じ始めたのは、教えの言葉について考察を重ねたからです。最初は教えを誤解したとしても、教えをくりかえし考察することによって、疑問や矛盾に気づき、誤解を正すことのできる可能性がひらけます。マハリシの教えに長年接してきた私たちは、マハリシの話を聞いても何も目新しい情報が得られず、失望するかもしれません。マハリシの話はいつも同じだと気づき、退屈を感じるかもしれません。事実、マハリシは運動の初期から、同じ事をくりかえし語り続けています。表現の仕方は少し変化しているかもしれませんが、本質的な内容には違いがありません。同じ事を飽くことなく、何度も何度もくりかえし語っています。それは、学ぶ者が教えの言葉を本当に聞き、それを理解するまで、くりかえし同じ事を語る必要があるからではないでしょうか。そうであるならば、学ぶ側の私たちも、それを飽くことなく、何度も何度も聞き、くりかえし考察するべきではないでしょうか。

 

ただし、くりかえすことが大切だと言っても、ただ漫然とくりかえせばよいというわけではありません。学ぶためには、精神は鋭敏でなくてはなりません。インドラが疑問を感じることができたのも、そして、アルジュナがクリシュナの教えに矛盾を感じ、適切な質問を尋ねることができたのも、精神が鋭敏であったからです。さらに言えば、精神が鋭敏であったのは、学ぼうとする真剣な熱意があったからではないでしょうか。物事に真剣に向き合う時、そこには必ず鋭敏さがあるのはないでしょうか。

 

真剣に学ぼうとする人々であれば、互いに協力し合うこともできるかもしれません。理解はあくまでも、ひとりひとりの意識において起こることであり、誤解に気づき、理解を開花させるのはひとりひとりの責任であることは言うまでもありません。ですが、真剣に学ぼうとする人であれば、誰かと共に学ぶこともできるのではないでしょうか。たとえば、教えについて議論するということも、共に学ぶことだと私は思うのです。

 

議論(discussion)とは、マハリシのニヤーヤ(論理学)解説によれば、真理に到達するためになされる、立論と反論の相互作用のことです。議論の目的は、探究対象である物事の真実を見出すことにあります。その点で、議論は論争とは異なります。論争の場合は、自分の意見を主張し、それを相手に納得させるなどして、論争相手に勝つことが目的です。論争する人は最初から結論を持っており、それに固執しています。論争する人は自分の理解が正しいと思い込んでおり、自分の見解に固執するので、必然的に対立が生じ、衝突します。しかし、議論が真実を見出すべく論じ合うことであるならば、議論において対立は起こり得ないと思われます。

 

意見が対立を生むのは、意見がつねに私的なものであり、「私」の意見と「あなた」の意見とが異なるからです。しかし、真理は誰のものでもなく、人によって真理が異なるということは考えられません。真理を探究すべく議論する者は、自分の理解が正しいという思い込みを持っていないはずです。自分の考えに固執していないはずです。自分の理解や考えを述べるのは、あくまでも真理探究の歩みとして述べるのです。ですから、相反する考えが述べられたとしても、両者は対立しません。対立の原因は異論反論にあるのではなく、自分の意見に対する固執にあるのではないでしょうか。

 

自分の考えに固執しない人は、自分の考えが誤解でないかどうかを確認するために、自分の考えを人に伝え、議論することに何の躊躇も感じないはずです。しかし、自分の見解に固執する人は、議論によって自分の見解が揺さぶられるのを嫌うかもしれません。反論されるのを恐れ、議論によって自分の理解が混乱するのを避けたいと思うかもしれません。自分の意見と違う意見に出会うだけで不愉快に感じる人もいるかもしれません。しかし、誰からも干渉されないようにと、自分の見解に閉じこもっていたのでは、誤解から脱することもできません。いつまでも自分の誤解を大切に温めることしかできません。議論を拒否するということは、学ぶことを拒否するのと同じです。

 

discussion という言葉の語源は「揺さぶること」です。揺さぶりは、一人でおこなうこともできますし、複数の人間でおこなうこともできます。ふつう、複数でおこなう揺さぶりは議論と呼ばれ、一人でおこなう揺さぶりは、論考、考察、検討などと呼ばれます。議論は私たちの誤解を揺さぶり、誤解をふり落とします。議論は誤解を打ち砕きます。議論を嫌う人は、議論することによって自分の理解が揺さぶられ、混乱が生じるのを恐れているのではないでしょうか。しかし、物事の真実を見出すためには、いまの理解(誤解)は揺らがなくてはなりません。他の人の言論によって自分の理解が揺らぎ不安定になるとすれば、それはむしろ歓迎すべきことです。

 

しかしながら、ご承知のように、議論するということは、私たちにとって最も困難な仕事のうちの一つです。議論しようとしても議論にならない、すぐに言い争いになってしまう、というのはよくあることです。議論するためには自分の見解に固執してはならないのですが、無知である私たちにとって、それは実に困難です。無知とは誤解することであり、誤解は固執と隣合わせだからです。あらかじめ結論や意見を持たずに真理を探究すべく対話するということは、頭では思い描くことはできても、実行するのはほとんど不可能であるかのように思えます。

 

しかし、だからと言って、議論は不可能であるとか、議論を試みるのは時間の無駄である、と断定するのは賢明とは思えません。議論を試みてもすぐに言い争いになってしまうのであれば、私たちはその現実を直視すべきではないでしょうか。そして、そうなるのは、自分が自身の見解に固執しているからである、という事実に気づくべきではないでしょうか。少なくとも、議論ができないのは相手が自分勝手だからだ、などと言って相手に責任をおしつけて済ませるべきではありません。議論を困難にしている原因は相手にだけでなく、相手と同じかそれ以上に自分自身にあります。

 

論争を嫌うあまり議論を拒否する人がいますが、それもまた言い争いと変わりありません。自説に閉じ込もり暗に異論と対立している、という点に違いはないからです。議論は不可能であると言って議論を試みないのであれば、議論が成立することは絶対にあり得ません。議論が可能かどうかは、実際にやってみなければ分からないことです。実際におこなう前から不可能だと決めつけるならば、万事が不可能となり、あらゆる可能性への扉が閉ざされてしまいます。

 

確かに、議論することは困難であるかもしれませんが、それでも私たちは何度も何度も議論を試みるべきだと思います。マハリシの教えを学ぶ日本の人々のあいだには、教えについて議論することを避けようとする風潮があるようですが、どうして、教えについて議論することが禁忌とされるのでしょうか。誤解を解消するための有効な手段である議論そのものが誤解され、敬遠されるとすれば、それは実に残念なことです。

 

仲間たちのもとに帰ったヴィローチャナは、自分が誤解して歪めた教えを仲間たちに伝えました。もしも、アスラに議論する習慣があり、仲間のなかに明敏な者がいたとすれば、ヴィローチャナの話の矛盾点を見出すことができたかもしれません。聞かされた話を鵜呑みにするのではなく、みずから考察することで、伝達された教義の内容に疑問を感じ、矛盾を見出すことができたかもしれません。そして、ヴィローチャナが伝達した教義は受け入れられないということが明らかになったかもしれません。そうすれば、ヴィローチャナは再びプラジャーパティのもとに戻って質問することができたでしょう。議論することによって、ひとりでは気づき得なかった誤解に気づく可能性が開かれ、教えの歪曲を初期の段階で修正することができるのです。

 

(三)

 

いずれにしても教えは誤解される運命にあります。なぜなら、教えは無知な人間を相手になされる行為であり、無知であるとは自己を誤解することだからです。自己を理解できない者が自己以外の何かを正しく理解することができるでしょうか。教えを学ぶ者はみな、自分が自己についての根深い誤解の上に立っているという事実を決して忘れるべきではないと思います。しかし、教えに触れた私たちは、自分が無知であるという事実をいつしか忘れてしまいます。自分自身にとって最も身近な存在である自己を理解できずにいる、という基本的な事実を忘れてしまいます。そして、自己以外の他の物事を理解している自分という存在に、不当な自信を持つようになります。物事を理解している自分はいったい何者なのか、という第一に理解すべきことを理解していないにもかかわらず、物事についての自分の理解に確信を持つのです。そうして、自己についての誤解から人々を解放するためにある教えでさえ、いとも簡単に誤解し、その誤解に縛られるのです。

 

ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド(2.3.6, 3.9.26 など)は、アートマン(自己)を「これではない、これではない」という否定によって教示しています。「これ」と呼ばれ対象化されるものはアートマンではない、したがって、「これがアートマンである」という見解はすべて否定されねばならない、と言うのです。また、シャンカラは『ウパデーシャ・サーハスリー』(韻文編第二章)のなかで、「前の理解(誤解)が否定されなければ、後の理解は生じない」と語っています。思うに、教えというものはみな、無知である私たちの誤解を否定するためにあるのではないでしょうか。そして、学ぶということは誤解を否定することではないでしょうか。しかし、真剣に学ぶということがない私たちは、自分がひとまず得た理解を否定することを嫌い、自分の理解をすぐに固定化させ、そこに安住しようとします。教えの真実を探究することなく、自分なりに解釈した教えにしがみつき、それを人生のよりどころにしようとします。私たちは、真実を探究しているのではなく、真実らしきものを見つけて安心したがっている、これが実態のようです。

 

真剣に学び続ける面倒を嫌う私たちは、教えに触れ、いくらか理解を深めることができれば、それで満足します。しかし、あらゆる誤解を否定する真の理解がないかぎり、深まったとされる理解は、自身の誤りを隠蔽する新たな誤解でしかありません。ですから、教えを学ぶ者は、理解が深まったという思いが生じた時にこそ、自分の理解を否定する必要があるのではないでしょうか。そして、私は本当に学んでいるのだろうか、そう問う必要があると思うのです。

 

 

Jai Guru Dev

 

 

© Chihiro Kobayakawa 2004

 

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