マハリシの『愛』
録音版
ここに訳出したのは、1963年(および1967年)に市販されたマハリシの講話集(LPレコード)に収録された "Love" の全文です。録音にはマハリシ自身による朗読(約24分)が収録されています。翻訳に際しては、1992年に復刻されたカセットテープ版(MIU PRESS)を使用しました。現在はインターネットの動画サイトにも音声がアップロードされており、マハリシによる朗読を聴くことができます。なお、1973年に発行された書籍 "Love and God"(Age of Enlightenment Press)にも "Love" が収録されていますが、内容の一部が改稿されており、この録音版とは若干異なっています。英文の区切り記号については、書籍版を参考にしました。
* * *
愛は生命の甘美なる現れです。生命に含まれる最高のものです。
愛は生命の力、力強く、崇高です。
生命の花は愛となって開花し、辺り一面に愛を放ちます。
生命は愛をとおして自らを現します。
生命の流れは愛の海におどる一つの波です。
生命は愛の波となって現れ、愛の海は生命の波となって流れます。
なんと深い安らぎを、愛は心に与えてくれるのでしょうか。
心は愛の想いに刺激されてじっとしていられなくなり、愛の海に生命の波がうねり始めます。
生命の波のすべてに愛の海が満ちています。
そうです、そのような生命こそが生きるに値する生命です。
生命の波のすべてに愛の海が満ちている、
そのような生命こそが生命であり、そのような生命こそが生きるに値する生命です。
では、どんな人が、愛と至福と力と平安に満ちた、そんな生命を生きるのでしょうか。
幸運な人です。しかも、幸運はあらゆる人に開かれています。みずからの運命を切り開いて、愛と喜びに満ちた生命を生きるようになる、という幸運が。
幸運な人は、深き瞑想という方法を用いて、心の内深くを探ります。
すると、愛の波は海の深さを得ます。そして、愛の海が心を満たし、全身全霊を揺さぶります。
生命の波のすべてが、そのとき、愛に満ち溢れ、神聖な栄光に満ち溢れ、気品に満ち溢れ、至福と平安に満ちて流れます。
生命の流れは、そのとき、至福のうねりに乗って流れ、生命の波のすべてに愛の海が行き渡ります。
愛は極めて敏感です。
愛は生命の最も繊細な力であり、生命は愛の最も力動的な現れです。
愛は繊細で、しかも同時に、活力に溢れて強力です。
とても小さくて壊れやすい愛の波が、生命の船を揺り動かします。
愛は、生命を分離の苦痛から永遠なる合一の至福へと導きます。
克服しがたい分離の苦痛から永遠なる合一の無限の喜びへと、とても小さくて壊れやすい愛の波が、移り行くのです。
何という奇跡でしょうか、神が創り給うた愛というものは。
そんな愛を生きましょう。
愛のなかにあり、互いに愛し合って生きましょう。そして、そっと、心のなかでこう呟くのです。
「御心が行われますように」
愛の柔らかな波動だけが、溶けて柔らかくなった心の唯一の命です。
愛の一縷の望みが、長い夜の闇の末に、夜明けの光をもたらします。そして、ごく微かな星の煌めきのような愛であっても、祭壇の光を灯し続けるのです。
そんなごく微かな愛の光のなかで、いつの日か、愛する神が進路を見出し、そっと静かに忍び寄って来られます。成就を望んで扉を開け放っておいた、小さな小さな愛に引き寄せられて。夜の闇も、いつの日にか、いつの時にか、晴れ渡る空の真昼の太陽の光明に屈することになる、という成就の希望を抱き続けてきた、小さな小さな愛に引き寄せられて。
愛による捕捉は、優しく柔らかでありながら、堅く強力です。
優しさと力強さの栄光が、愛の栄光です。
愛の力強さにおいても、優しく柔らかであり続けたい、それは誰もが願うところ。
愛の力強さは、人を優しく堅固にします。悪においては人を弱くし、善においては人を強くします。権威を寛容にし、生命のあらゆる領域を優美にします。
これが幸運な人々の運命です。
愛は幸運な人々の幸運。
愛の豊満が、あらゆる運命の終着点。
幸運なのは、心が愛あふれて流れる人々です。
愛する心、愛で満たされた心は、人間の生命の貴き精髄です。
そして、その心が際限なき至福のうねりとなって流れるならば、それは、至高者の栄光であり、母なる神の祝福、神の恵みです。
愛の波は、生命の全域に渡って流れ、創造界の全域に渡って広がります。
愛の力は、生命の飛行機を操縦し、ここかしこ至る所へと導きます。
愛は生命を家から山へ、山から山へ、家から家へと連れてゆきます。
愛は死に物狂いで探し求めているのです。
愛は、めざす目標を温めながら、その道程の生彩も保ちます。
愛の静かな力は、障害を知らず、
生命を険しい山並みや荒れ狂う海にも連れてゆきます。
そして、そこで、寂然とした荒野にあっても、はたまた騒然たる海原にあっても、広大に広がる際限なき愛は、どこか遠くから、涼やかで爽やかなそよ風を送り、心をなだめ、分離の苦痛を和らげるのです。
繊細で優しい愛の手は、生命を、痛々しい棘から、か弱く柔らかな一輪の薔薇へと導きます。
柔らかな愛のゆりかごに乗せられて、生命は、死に物狂いの探求の孤独から、豊穰なる成就の平原へと移り行きます。
ほのかな愛の閃光が、孤独のなかに光を灯し、
過ぎ去りし日々の苦痛を火あぶりにし、希望と喜びと成就の光を広げます。
小さな愛の閃光が、それを為すのです。
愛は神からの最も貴重な贈り物です。
それを活かしましょう。
生命を愛で満たすのです。
愛し、愛情にあふれ、まわりに気品を広げましょう。
私たちのなかに満ち溢れる愛が、世間の喧騒や人生の辛酸によって掻き乱されることがないようにしましょう。
気品に満ち溢れ、光に満ち溢れていましょう。そして、愛が満ち溢れるなかで、目覚めて神の御心に仕えましょう。自分自身にとっても、同胞にとっても、真に役立つ存在へと高まりましょう。
神の栄光を愛のなかに招来するのです。
神の光輝の至福と、愛の光を、生命に行き渡らせるのです。私たちの生命を神の永遠の生命へと変容させるのです。
私たちのなかにある愛を神の光として芽生えさせるのです。神の本質は愛そのものであり、愛の真実の現れは神そのものであるのですから。
神は満ち溢れる愛であり、愛は満ち溢れる神なのです。
愛は神聖な光であり、人間のなかに神を現します。
愛は人間のなかにある神の命です。
心のなかにある愛は、天界にある神なのです。
天界の神性は、私たちの心のなかに愛として宿ります。
人間の心のなかにある愛は、地上における神の聖堂です。
幸いなる人とは、満ち溢れる愛という神の聖堂を心のなかに携える人のことです。
そして、溶けて柔らかくなった心から愛の滴がしたたり落ちると、天界の天使たちが降りて来て、その数を数え、記録します。
貴き愛の滴は一滴も無駄にはなりません。すべての愛の滴は、際限なき至福の海に流れを起こし、至福の海は、神聖な愛を開花させ、心を満たすからです。
それから、その人の目は神を仰ぎ見るようになり、神は、両手を差し出し、心を差し伸べます。すると、実在が姿を現します。人間の愛の流れが神の愛の海を見つけ、その中へと流れ込むのです。これが愛の栄光です。
人と神が永遠の愛の海のなかで一つに結ばれます。
このような愛の栄光を私たちの生命にもたらしましょう。そうすれば、地上の生命は天上の楽園と化します。
神への愛というものは抽象的な概念でしかない、と言う人もいます。
確かに、それは抽象的です。
神への愛を具体的にするには、生涯に渡る経験を要します。
幼少期にある神への愛は抽象的です。ですが、忘れてはなりません。神への愛は、人生の最初期から具体的になり始め、知らぬ間に成長し、成長するにつれ具体的になってゆき、ついには生命を完全に圧倒する、ということを。
生まれたばかりの愛は、母親のひざの上で、母親の優しい眼差しに包まれて、一つの形をとって現れます。
そして、玩具に囲まれ運動場で遊ぶなかで成長し、友や社会の仲間の優しさに包まれて、夫や妻の優しさに包まれて成長します。
歳月と経験を重ねるにつれて、愛の木は成長します。進化し、生命が成長するにつれて、愛の木も成長し、遍在する神に対する永遠の愛に到って成就し、その愛が心を満たし、無知の暗闇を一掃するのです。
そのとき、普遍的な愛に照らされて、神に対する抽象的な愛は、あらゆる事物に対する具体的な愛となって現れます。
万物が、永遠の愛の神聖な放射となるのです。
生命は、生き生きとした神の臨在に包まれて、その意義を見出します。
そのとき、生命のすべての相に愛が浸透し、生き生きとした神の臨在がその息吹となります。ここかしこ至る所に、この中にも、あの中にも、すべての中に、あるのは愛だけであり、生き生きとした神の臨在だけです。
こうして、しだいに、個人的な愛は自然に歩みを進め、普遍的な愛の位階を得るのです。
そして、普遍的な愛は歩みを進め、個人的な愛となって現れるのです。
生命には何事も時機というものがあります。
生命は愛の歩みをとおして前進します。そして、愛における歩みのすべてに、意味のある時機というものがあります。どの段階の愛であっても、それに対応する進化の段階に成就をもたらすのです。
あらゆる愛が、どんな滴のどんな段階であっても、生命にとって意味があるのです。
愛は生命に与えられた最高の祝福です。
太陽は光り輝きます。あらんかぎりの光を放って、とわに光り輝きます。
もしかすると、雲が出て厚くなってゆくかもしれません。
雲の去来は成り行きにまかせましょう。雲は、いつしか来るように、いつしか去ってゆきます。
雲が来るのを気にすることはありません。自分の道を進めばよいのです。
行く手に雲があるのなら、雲の中を通り抜ければよいのです。
雲を追い払おうとしてはなりません。雲につかまってはなりません。雲は来た道を引き返してゆきます。
雲は決してじっとしていません。でも、雲が消えてゆくのを立ち止まって見ていたいのなら、しばらく待つとよいでしょう。
いずれにせよ、風が吹いてきます。そして、行く手にある雲を消し去ることになります。
少し待って雲が消えてゆくのを見ていれば、太陽が、以前と同じ愛の太陽が、再び全盛の光を放って輝くことになるでしょう。
夜になると、目にするものすべてが闇と映ります。ですが、暗闇は永続きしません。
夜明けの光が訪れ、愛と、生命の魅力を広げます。ですから、しばらくのあいだ夜の暗闇が広がったとしても、気にはしません。
なぜなら、愛の光が永久に消えて無くなるということは、絶対にあり得ないからです。
ですから、私たちは愛のなかで生き、愛のなかで待ち望んでいるのです。生命のなかで成長し、永遠の愛に到って成就することを。
愛は本来、普遍的です。
個人的な愛は普遍的な愛の凝縮です。
このように言うと、ああ、私の心は流れます。個人的な愛は普遍的な愛の凝縮なのです。
普遍的な愛の海が、個別の愛の流れとなって流れます。
なんという恵まれた生命でしょうか。
普遍的な意識が到来した人の心は、個人的な愛の流れにおいても、普遍的な愛の際限なき海の力を持つことができるのです。
愛する能力が限られている人、特別な対象や個人という限られた経路にしか愛が流れない人、あれこれを好むことしかできない人、心のなかに普遍的な意識に対する気づきを持たない人、そのような人は小さな池のようなものであり、そこでは、愛は細波として流れることができるだけで、海の波として流れることはできません。
それが大半の人々の愛です。今日は愛していても、明日には争いを始めます。
愛を汚辱するのはやめましょう。
もっともっと、とわの愛へと高まりましょう。
海が愛となって流れるときは、内なる平安を保って流れます。
浅い池が海のような波となって高く上ろうとして動けば、水底の泥を混ぜ返すだけで、池の平穏は完全に損なわれます。
池のように浅い心が愛の波となって高く上ろうと努めれば、池は掻き乱され、奥床しくも水底に隠されていた泥が掻き上げられてしまいます。
愛の海を楽しむためには、心の大きさを拡げなくてはなりません。そして、量り知れない満々とした海の深さを得なくてはなりません。
私たちの愛が吹きかう風に為す術もなく流されてしまわないように、心に海の地位を与えましょう。
深き海の地位を得たうえで、心を開き、愛の海を流れさせましょう。満ち溢れるままに流れさせましょう。
力強い愛の波は、優雅に高まり、多様なる創造界の栄光を喜んで受け入れながらも、その内には統一と平安の至福があるでしょう。
では、いかにして心の深さを増すのでしょうか。
自身の存在の純粋な状態へと深く探り入ることによってです。
心のなかの静かな部屋でさざめいている愛の波、そのいっそう精細な領域を探ってゆくことによってです。
心の内にある、際限がなく量り知れぬ愛の海の動きのない静寂へと、深く飛び込むことによってです。
自己探究の簡単な技術によって、すなわち超越的な深き瞑想として広く知られているものによってです。
内なる愛の海の量り知れぬ大きさを量り、満ち溢れる生命のなかで満ち溢れる心を永久に楽しむことは、誰にとっても容易いことです。
愛は充溢、すべてを包み込みます。
愛は一つに結びつけます。愛は生命を統一する力です。
統一性を強め、結びつけはしますが、自由なまま結びつけます。
愛は自由な絆の数々を一つに束ねます。
愛は不和を知りません。分裂は愛とは無縁です。不和は愛とは無縁です。不調和は愛とは無縁です。
愛は純粋なるもの、汚れなきものです。愛は満ち溢れるもの、一なるもの、至福です。愛は成就をもたらします。
愛は散り散りになった生命の断片を統一し、それらすべてを一つの統合的な全体にまとめます。
愛は生命の象徴です。
愛の欠如は生命の中身の欠如を意味します。そして、本当の愛がないのに愛をひけらかすことは、生命に対する汚辱です。
抑制を伴わない、単純で、無垢で、自然で、正常な状態の愛は、神聖な特性の一つです。それが、恵みを受けた生命本来の特性です。
満ち溢れる無垢の愛にこそ神聖な恵みがあり、豊満な愛のなかにこそ、神への愛と神の創り給うたものへの愛があるのです。
そして、はからずも自分が宇宙意識の際限なき愛のなかにいることを知った生命を愛する者は、自身の内なる神に向かって、こうささやきます。
「主よ、私の心の殿堂のなかで、あなたの栄光を祭る祭壇の上で、おお神よ、私の愛は満ち溢れています。そして、あなたの愛はつつがなく秘蔵されています。
あなたに対する私の愛は、あなたを祭る輝かしい祭壇にあって、つつがなく、生気と純粋性に溢れています。
主よ、あなたの主たる地位は、私の心の聖堂のなかで護られています。そして、私の愛が流れるとき、あなたの創り給うた世界に栄光が広がります。」
神への愛のなか、生命を愛する者は、現し得ないものを現します。
宇宙的な生命が、その人の活動となって現れます。
宇宙的な生命の想念は、その人の思考過程となって具現します。
その目は、創造の目的を見据えます。
その耳は、宇宙的な生命の音楽を聞きます。
その手は、宇宙的な意志を握り締めて離しません。
その足は、宇宙的な生命を動かします。
その人は、地上を歩んでいても、天界の運命を歩んでいるのです。
天使たちは、地上におけるその人の存在を楽しみます。
これが、愛から生まれる統一の栄光です。
周りにあるものすべてを愛しましょう。
愛のなかにありましょう。
愛のなかで、愛のなかにあることを決意しましょう。なぜなら、愛とは生命に他ならず、言うまでもなく、私たちは生命の外に出たいとは思わないからです。
ですから、愛のなかで、愛のなかに留まる決意をしましょう。愛情あふれる状態の境界の外へと決して踏み出さないようにしましょう。
なぜなら、愛のなかにこそ、創造の力、生命の知恵、純然たる善の力が宿るからです。
もとより、私たちの生命は是非とも愛のなかになくてはなりません。
愛の糸が、私たちの生命の衣を織り上げたのです。
その衣を、私たちは、一点の汚れもなく綺麗に清らかに保ちます。
生命は、愛のなかにある私たちへの、神からの神聖な贈り物です。
私たちは、愛を汚したりはしません。生命というこの神聖な贈り物を台無しにはしません。
愛は、私たちの生命のなかで清浄に保たれます。
そのような愛は、私たちの進化と、創造の宇宙的な目的の助けになるでしょう。
私たちを気高く輝かしい生命のレベルに保つでしょう。
愛が、私たちを悪の道から救い出し、人生の道案内となります。
愛が、歩みの道すがら、とわに光り輝きます。ゆっくり進もうとも速く進もうとも、その光が、私たちの歩みを導いてくれます。
愛の光が、歩みの道すがら、とわに私たちと共にあります。
愛が、とわに人生の碇となります。
私たちは愛のなかにあり、愛が私たちのなかにあります。
私たちは、愛のなかで生き、愛のなかで成長し、永遠の愛のなか、成就を見出すのです。
Jai Guru Dev
© Chihiro Kobayakawa 2013