マハリシの教えを学ぶ友への手紙(97

 

 

ほぼ絶対的な超越意識

 

 

マハリシの教えを学ぶ人のなかには、超越意識は「絶対的な意識」であると理解している人がいるかもしれませんが、おそらく、その理解は十分ではありません。

 

確かに、超越意識は、相対的な三つの意識状態(目覚め、夢、眠り)とは異なる、第四の意識状態と言われていますから、超越意識は絶対的であると理解してもよさそうです。マハリシ自身が、第四の意識のことを「絶対的な意識」と呼んでいる文例もあります。

 

ここまで、意識の五つの状態を見てきました。すなわち、目覚め、夢、眠り、純粋意識、宇宙意識です。さて、宇宙意識とは、第四の意識と呼ばれる絶対的な意識に、目覚めの意識状態を加えたものに他なりません。二つが一緒になっているのが、宇宙意識です。(録音講義録「七つの意識状態」より)

 

So now we have these five states of consciousness: waking, dreaming, sleeping, pure consciousness, and cosmic consciousness. Now, cosmic consciousness is nothing other than the absolute consciousness which we call fourth, plus waking state of consciousness; two together is cosmic consciousness.

 

実際に「絶対的な超越意識」という表現が用いられている文例もあります。

 

精神が絶対的な超越意識に到達するのには、いかなる困難もありません。(バガヴァッド・ギーター6章44節注釈)

 

. . . there is no difficulty for the mind in reaching absolute transcendental consciousness."Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.463

 

以下の言葉では、超越意識が絶対的な有(Being)と同一視されています。

 

絶対的な有の領域、超越意識(サマーディ)の状態。(バガヴァッド・ギーター注釈付録)

 

The sphere of absolute Being, the state of transcendental consciousness (samadhi)."Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.487

 

これらの教えの言葉を見るかぎり、超越意識は絶対的であると理解しても間違いはないように思われます。超越意識は絶対的な有と同一であると理解してもよさそうに思われます。しかし、事はそう単純ではありません。というのも、以下のような言葉があるからです。

 

気づきが最も鋭敏であるとき、気づきが最も精妙な知覚を超越する直前にあるときには、その最高度に鋭敏な状態の気づきは、おそらく、超越的なるものが何であるのかを直接認知するでしょう。(中略) 超越意識は、最高度に鋭敏な状態の気づきです。(創造的英知の科学の講座、第22課)

 

When our awareness is most alert, just before transcending the finest perception, then perhaps that most highly alert state of awareness will directly cognize what the transcendent is. . . . Transcendental consciousness is the most highly alert state of awareness.  

 

ここでは、超越意識とは「最高度に鋭敏な状態の気づき」のことであり、それは、最も精妙な知覚を超越する直前のものである、とされています。そして、そのような気づきなら、超越的なるものが何であるのかを直接認知することができる、とされています。つまり、超越意識は、最も精妙な知覚を超越する直前のレベルにある、ということになります。「最も精妙な知覚」と言われていることから明らかなように、超越意識は相対的な領域に属するものであるはずです。五感による知覚は超越しているとしても、その知覚は未だに相対的な領域内にあるはずです。したがって、ここで言われている超越意識は、絶対的な有と同一であるとは考えられません。

 

有は超越的な性質のものであり、それは絶対的な意識です。(『有の科学と生の芸術』より、マハリシ出版『超越瞑想』155頁、読売新聞社『超越瞑想入門』1992年改訂新版163頁に相当)

 

Being is of transcendental nature; It is absolute consciousness."The Science of Being and Art of Living", 1966, p.122

 

真に超越的かつ絶対的である有をさらに超越しているものはあり得ません。しかし、もしも超越意識が「最も精妙な知覚を超越する直前のもの」であるならば、超越意識をさらに超越しているものがあり、それが絶対的な有である、ということになります。

 

超越意識が絶対的ではないものとして語られている文例は他にもあります。まずは、以下の言葉を見て下さい。

 

ヤティーナーム・ブラフマー・バヴァティ・サーラティヒ(リク・ヴェーダ 1.158.6

 

完全に目覚めた自体的な意識という単一性に確立している人々にとっては、ブラフマー(創造主)、無限の組織力を持つ自然法が、あらゆる活動の御者になる。("Maharishi's Absolute Theory of Government", 1995, p.359

 

Yatinam Brahma bhavati sarathih Rk Veda, 1.158.6

 

For those who are established in the singularity of fully awake, self-referral consciousness, Brahma, the Creator -- the infinite organizing power of Natural Law -- becomes the charioteer of all activity.

 

このヴェーダの教えはマハリシがよく引用するものですが、要するに、「宇宙意識の状態にある人の場合は、ブラフマーが全活動の御者になる」という教えです。そして、このヴェーダの教えは、別の箇所では以下のように翻訳されています。

 

英知の自体的な状態(ヴェーダーンタ)に確立している人々にとっては(ヤティーナーム)、宇宙的な創造的英知、母なる神、ブラフマンのシャクティ、パラー・プラクリティ(超越意識)、ヴェーダを構築する自己指向的なダイナミクス、自己指向的なレベルから機能するサンヒターという要素が、どんな事でもその遂行を引き受けてくれる。("Maharishi's Absolute Theory of Government", 1995, p.462

 

For those (Yatinam) established in the self-referral state of intelligence (Vedant), the Cosmic Creative Intelligence, Mother Divine -- Brahmi Shakti, Para Prakriti (Transcendental Consciousness), the self-referral structuring dynamics of Veda -- the element of Samhita from its self-referral level undertakes to perform anything.

 

二つの翻訳を比べてみると分かるように、ブラフマーが様々な形で言い換えられているのですが、注目すべきは、ブラフマーが超越意識と言い換えられているという点です。ブラフマーは絶対者ではありません。それは、以下のマハリシの言葉が明らかにしているとおりです。

 

創造界が顕現するとき、先ず初めに現れるのは、自らを明るく照らす生命の光輝です。これは、確立している知性の領域、個別的な自我が確立している状態です。この自らを明るく照らす生命の光輝は、ヴェーダと呼ばれます。顕現過程の第二段階は、いわゆる振動の出現です。この振動が、プラクリティすなわち根源的自然の属性である三つのグナを生起させます。この局面が自我の作動の始まりとなります。ここで、極めて微妙な形で経験が始まります。経験する者・経験される者・経験の過程の三つ組みが存在するに至ります。これが創造の過程における行為の始まりです。行為の始まりの直前の、すなわち最も微妙な振動が始まる直前の、存在が自らを明るく照らしている状態のなかに、創造界の源、無限のエネルギーの宝庫があります。この創造界の源がヴェーダです。ヴェーダは、ほぼ絶対的な英知の領域であり、生命の創造と進化の因となる全活動の根底にあって、そのすべてに浸透しています。それは、あらゆる創造物の源であるがゆえに、ブラフマー(創造主)と呼ばれます。ブラフマーあるいはヴェーダは、当然のことながら、あらゆる活動の源です。ですから、この詩節は「行為はブラフマーから生まれるものと知りなさい」と語っているのです。(バガヴァッド・ギーター3章15節注釈)

 

The first manifestation of creation is the self-illuminant effulgence of life. This is the field of established intellect, or the individual ego in its own established state. This self-illuminant effulgence of life is called the Veda. The second step in the process of manifestation is the rise of what we call vibration, which brings out the attributes of prakriti, or Nature - the three gunas. This point marks the beginning of the functioning of the ego. Here experience begins in a very subtle form: the trinity of the experiencer, the experienced, and the process of experience comes into existence. This is the beginning of action in the process of creation. Just before the beginning of action, just before the beginning of the subtlest vibration, in the self-illuminant state of existence, lies the source of creation, the storehouse of limitless energy. This source of creation is the Veda, the field of almost absolute intelligence which underlies and pervades all activity responsible for the creation and evolution of life. This, being the source of all creation, is said to be Brahma, the Creator. Brahma, or the Veda, is naturally the source of all activity. That is why the verse says: 'Know action to be born of Brahma'."Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.206

 

ブラフマー(ヴェーダ)は、ほぼ絶対的な英知の領域であり、絶対的な有が創造界として顕現する過程の第一段階です。それは、確立している知性(ブッディ)の領域です。このブラフマーが超越意識と言い換えられているということは、超越意識も「ほぼ絶対的なレベル」にあるということを意味します。超越意識は、絶対的な有ではなく、有の顕現の第一段階にあるのです。逆に言えば、超越意識とは、最も精妙な相対的レベルを超越して絶対的な有に溶け込む直前のものである、ということになります。したがって、絶対的な有を「絶対的な意識」と呼ぶのなら、超越意識を「絶対的な意識」と呼ぶことはできません。絶対的な有と接しているレベルにあるとはいえ、超越意識は有そのものではないからです。

 

ただし、超越意識は、ほぼ絶対的なレベルにあり、絶対的な有と表裏一体です。それゆえ、超越意識はヨーガとも呼ばれます。超越意識においては、精神が絶対的な有(絶対的な自己・神聖なるもの)と結合しています。相対的な経験の対象と合一しているのではなく、絶対者と合一しています。その意味では、ほぼ絶対的なレベルにあるとはいえ、超越意識は絶対的な意識状態であると言うこともできます。厳密に言えば絶対的ではないのですが、少し大雑把な言い方をすれば、絶対的であると言うこともできます。

 

マハリシは、真に絶対的なものも、ほぼ絶対的なものも、いずれも「絶対的」と形容することがあり、両者の違いをあまり明確には語っていないようです。しかし、厳密に言えば、「絶対的」と形容し得るのは有のみであり、それ以外のものは絶対的ではありません。有は絶対的な意識ですが、有の顕現である様々な意識状態は絶対的ではありません。有は永遠ですが、様々な意識状態は永遠ではありません。第四の意識である超越意識も、絶対的な有と同一ではないのです。

 

或る講義のなかでマハリシは、質問者が「宇宙意識の人が死んで肉体が脱落すると、相対的な意識はすべて失われ、超越意識だけが残るのでしょうか」と尋ねたのに対して、その場合は「超越意識」ではなく「有」と呼ぶ、と答えています。

 

その場合は、超越意識とは呼びません。なぜなら、相対界にも何も存在しないからです。ですから、私たちはそれを有と呼びます。有です。(録画講義録より)

 

And then, we don't call it transcendental consciousness, because there is nothing in the relative as well. So, we call it Being -- Being.

 

超越意識が永遠絶対の有と同一であるならば、宇宙意識の状態にあった人が死んだ後には、目覚め・夢・眠りという三つの相対的な意識は存在しなくなり、超越意識だけが残る、と言うことができるはずです。しかし、マハリシは、そうではないと答えています。後に残されるのは超越意識ではなく、有である、と答えています。相対界にも何も存在しないので、超越意識も存在しない、と言うのです。つまり、超越意識が存在するためには、超越意識の存在の基体となる何かが相対的な領域になくてはならないのです。

 

宇宙意識は、相対的な事物に対する気づき(三つの相対的な意識状態)と、絶対的な有に対する気づき(第四の意識状態・超越意識)が共存する意識状態です(創造的英知の科学の講座、第23課)。つまり、超越意識とは絶対的な有に対する気づきのことであり、それは気づきの主体(精神=マナス、あるいは知性=ブッディ)において成立するものと言えます。ですから、宇宙意識の状態にあった人が死に、肉体だけでなく経験の主体である精神も消滅すると、超越意識も存在しなくなります。有を経験する経験者が存在しなくなり、永遠絶対の有のみが残ることになります。

 

超越意識においては、絶対的な有が経験されます。ですが、絶対的な有を経験するのはあくまでも相対的な領域に属する精神であって、有自身ではありません。このあたりの事情について、マハリシは以下のように説明しています。

 

精神が個別性を失えば、経験する機能も消滅します。有の状態には知るということがありません。それは、知るということ、経験するということを一切超越している状態です。ですが、もしそうであるならば、どうして精神が至高の幸福を経験すると言えるのでしょうか。(中略) 確かに精神は至高の幸福を経験する能力を持っています。ただし、それは、精神が今にも超越しようとしている境目にあり、相対と絶対の接点にあるときです。絶対的な至福意識とはどういうものなのか、それを精神が経験的に知るのは、まさしくこの点においてです。このことはウパニシャッドにおいて明らかにされており、実在は精神によってのみ経験されると明言されています。精神による実在の経験は、常に相対と絶対の接点におけるものです。瞑想の内向きの行進の終わりにおいて、精神が超越しようとしているときに経験され、瞑想の外向きの行進の始まりにおいて、超越から出て来るときに経験されます。(バガヴァッド・ギーター6章27節注釈)

 

The faculty of experience becomes extinct when the mind loses its individuality. The state of Being knows no knowing; it is a state that transcends all knowing or experiencing. But if this is so, how can it be said that the mind experiences supreme happiness? . . . The mind does have the ability to experience when it is on the verge of transcending, at the junction of relativity and the Absolute. It is at this point that the mind experiences the nature of absolute bliss-consciousness. This has been brought out in the Upanishads, where it is stated specifically that Reality is experienced by the mind alone. Experience of Reality by the mind is always at the junction-point: while it is about to transcend at the end of the inward stroke of meditation, and while coming out of transcendence at the start of the outward stroke of meditation."Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.437-438

 

訳注:マハリシが引用しているウパニシャッドの言葉、「実在は精神によってのみ経験される」は、ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド第4部4章19節からの引用です。その全文は以下のとおりです。「精神によってのみブラフマンは覚知される。ブラフマンの内には如何なる多様性も存在しない。ブラフマンの内に多様性を見る者は、死から死へと赴く。」

 

有は、自身を経験することができません。自身を知ることができません。経験するということ、知るということを超越しているからです。また、精神が完全に超越し、有に溶け込んでしまえば、その場合も、精神は有を経験することができません。絶対的な有を経験するのは、ほぼ絶対的なレベルにある精神、相対と絶対の接点に位置する精神なのです。

 

そして、宇宙意識とは、相対と絶対の接点において、絶対的な有が常に経験されている意識状態です。絶対的な有(絶対的な意識)は永遠であり、無知の状態においても、相対的な意識の根底にあり続けています。相対的な意識の根底には常に絶対的な意識があります。つまり、無知の状態においても、相対的な意識と絶対的な意識は常に共存しているのです。宇宙意識とは、正確に言うならば、相対的な意識と絶対的な意識が共存する意識状態のことではありません。それは、相対的な意識と超越意識(絶対的な有に対する気づき)が共存する意識状態のことです。超越意識は、絶対的な意識そのものではありません。それは、絶対的な意識の反映です。それゆえ、超越意識が存在するためには、映像を映し出す媒体(神経系あるいは精神)の浄化が必要となります。

 

絶対的な意識である有は永遠であり、絶対的な意識が存在しないという時は、過去・現在・未来をとおしてあり得ません。しかし、絶対的な意識の反映である超越意識が存在するかどうかは、映像を映し出す媒体(神経系あるいは精神)がどれだけ浄化されているかによります。超越意識が経験されたり、経験されなかったりするのは、このような事情によるのです。そして、浄化が完成すれば、常に超越意識が維持されるようになります。それが、宇宙意識の状態です。多くの瞑想者は忘れてしまっているかもしれませんが、実は、このような知識(超越意識は絶対的な有の映像であるという知識)は超越瞑想を学ぶ七つのステップのなかで教えられることです。

 

最後に付言しておきますが、「絶対的な有を経験する」という表現も、厳密に言えば正確ではありません。なぜなら、有は、絶対的であるので、決して経験の対象にはならないからです。有が経験の対象になるならば、有もまた相対的であるということになってしまいます。マハリシも指摘しているように、経験の主体も、経験の客体(対象)も、いずれも相対的な存在です。絶対的な有は、主体でも客体でもありません。したがって、絶対的な有は、自身によっても、他者によっても、経験されることがありません。ですから、「絶対的な有を経験する」と言われることがあるとしたら、それは「絶対的な有の映像を経験する」という意味であると考えられます。相対と絶対の接点に位置する精神が、絶対的な有の完全な映像を宿し、そうして有と同一化した自己を経験すること、それが「有を経験する」と言い表されているのだと考えられます。それは、水面に映る太陽の映像が、自分は太陽であると気づくようなものです。

 

以上に見てきたように、超越意識とは、それが第四の意識状態を意味するものであるならば、それは絶対的な意識のことではなく、ほぼ絶対的なレベルにあって、永遠絶対の有に気づいている状態、永遠絶対の有と合一している状態を意味します。たとえ、第四の意識状態が「絶対的な超越意識」と呼ばれることがあったとしても、それは真の意味で「絶対的」なのではなく、相対的な対象を持たず、自己の本質である絶対的な意識を反映しているという意味で「絶対的」と呼ばれている、そう理解すべきでしょう。

 

 

Jai Guru Dev

 

 

© Chihiro Kobayakawa 2016

 

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