マハリシの教えを学ぶ友への手紙(96

 

 

ブラフマチャリヤと禁欲

 

 

ブラフマチャリヤ(性的純潔)は、単なる性的禁欲ではありません。禁欲は意志の力によって維持できるかもしれませんが、ブラフマチャリヤにおいて重要なのは、そんな表面的な事柄ではありません。その点について、マハリシは、バガヴァッド・ギーター6章14節に対する注釈のなかで、以下のように語っています。

 

心身を平安の内深くに保ち、恐怖から解放されて、純潔の誓いを固守し、精神を鎮め、想念を私に委譲し、かくして合一して座すべきである。私を超越者であると覚知して。(6章14節本文)

 

With his being deep in peace, freed from fear, settled in the vow of chastity, with mind subdued and thought given over to Me, let him sit united realizing Me as the Transcendent."Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.409

 

 

「純潔の誓いを固守し」について。この言葉が言わんとしているのは、ここで提言されている実修法は純潔の誓いを立てた人々だけのものである、ということではありません。この文脈の場合、主クリシュナは、志願者の生き方の表面的な側面、純潔の誓いを立てているかどうかという点について語っているのではありません。この詩節で用いられている言葉はいずれも、瞑想の内向きの行進の間の精神状態について、深い洞察を与えてくれます。「純潔の誓いを固守し」という言葉も、このような見地から解釈されるべきです。

 

性的純潔の誓いを立てた人のエネルギーはすべて、絶えず上方に向けられています。肉体と精神と感覚器官の流れ全体が、より高い進化レベルへと向けられており、エネルギーが下向きに流れる可能性はありません。それと同じく、瞑想者の精神が内深くに入って行くときにも同様の効果があります。すなわち、肉体、感覚器官、精神などの様々な領域における生命エネルギーを上向きにして進化の最高レベルへと向かわせ、それと同時に、精神的、感覚的、肉体的なエネルギーが下向きに流れる余地を残しません。瞑想者の個別の人格のすべての側面が、普遍的な意識へと収束してゆき、超越的な有の領域に到ります。超越瞑想の実修に伴って、精神は、永遠の有の意識に向かって継続的に高まってゆきます。性的純潔を保つ人の場合は、純潔の誓いによって、生命の流れ全体が同じ至高の意識に向かって絶えず高まってゆきます。ですから、超越瞑想は、性的純潔の誓いに譬えることもできるでしょう。

 

したがって、ここで強調されているのは、誓いを立てるという行為ではなく、神を探求する途上において、確実かつ安全に上向きのエネルギーの流れが保たれるということです。これは、超越瞑想の過程の間に起きることであり、性的純潔を保つ人の生活においても起きることです。こうして、人は「ウールドゥヴァ・レータス(urdhvaretas)」となるのです。つまり、その人のエネルギーは上向きの方向にのみ流れるのです。(6章14節注釈)

 

訳注:ウールドゥヴァ=上向きの、レータス=精液・生命エネルギー。

 

'Settled in the vow of chastity': this does not mean that the practice here prescribed is only for those who have taken a vow of chastity. In the present context, the Lord is not dwelling on any gross aspect of the aspirant's way of life, on whether or not he may have taken any vow of chastity. Every expression in this verse gives deep insight into the state of the mind during the inward stroke of meditation, and it is in this sense that the words 'settled in the vow of chastity' should be understood.

 

All the energies of a man who has taken a vow of chastity are ever directed upwards, the whole stream of body, mind and senses being channelled towards the higher levels of evolution, with no chance for his energy to flow downwards. Likewise, when the mind of the meditator goes deep within, this too has the effect of directing upwards the life-energy in the different spheres of his body, senses and mind towards the highest level of evolution, at the same time allowing no chance of a downward flow of any mental, sensory or bodily energy. Every aspect of his individuality converges upon universal consciousness in the transcendental field of Being. Because transcendental meditation brings with it a continuous rise of the mind towards the consciousness of eternal Being, it may be compared to the vow of chastity, by virtue of which the whole life-stream of a celibate ever rises towards this supreme consciousness.

 

It is not, therefore, the act of taking a vow that is emphasized here; rather, it is the secure and safeguarded upward flow of one's energies on the road of the divine quest. This takes place during the process of transcendental meditation and also in the life of a celibate -- one becomes 'urdhvaretas', meaning that one's energies flow only in an upward direction. "Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.409-410

 

このマハリシの注釈が明らかにしているように、重要なのは、生命エネルギーの流れを上向きに保つことです。ブラフマチャリヤ(性的純潔)とは、単に性的行為を控えるということではなく、生命エネルギーが絶えず上向きに流れる状態のことです。たとえ禁欲を心がけたとしても、性的願望から解放されていなければ、性的純潔を保つことはできません。愛好の対象を思うこともまた性的行為の一種だからです。肉体的なレベルの性的行為を控えたとしても、精神的なレベルの性的行為が行われるのなら、それだけでも生命エネルギーは下向きに流れると考えられます。そうであるならば、禁欲を続けるだけでは、真のブラフマチャリヤとは呼べません。「行動器官を抑制しつつも、精神の内では感覚器官の対象をしきりに思い、自己を欺いて座す者、そのような人は偽善者である」と言われているとおりです(バガヴァッド・ギーター3章6節)。

 

熱心な瞑想者のなかには、霊的成長のためには性的禁欲が不可欠だと考え、性的行為を嫌悪する人がいるかもしれません。実際、そんな女性瞑想者の話を私は聞いたことがあります。彼女は、或る女性TM教師が結婚し妊娠したのを聞いて、そのTM教師に失望し、軽蔑の念を抱いたそうです。しかし、そう言う彼女自身も、厳格な性的純潔を保っていたわけではありません。彼女は、多くの男友達との交遊を楽しんでおり、男性に好意を抱かれることを欲し、もてはやされることを欲していました。そして、奇妙なことに、自身の姿勢や振る舞いは性的純潔の範囲内に収まると考えていたようです。彼女が求める「性的純潔」は、極めて表面的で粗雑なものだったのです。

 

言うまでもなく、マハリシは結婚を否定してもいませんし、子供を儲けることを否定してもいません。超越瞑想は、性的純潔の誓いを立てた人だけのものではありません。マハリシの教えは、生涯の独身生活者であるか、それとも結婚生活を営む者であるかを問わず、万人に向けられたものです。性的純潔について誤解する人がいるからこそ、マハリシは、結婚に関する話のなかで「子供を持とうとしないということは、林檎の木から林檎を取り上げるようなものです」と語ったのではないでしょうか。人には、それぞれのダルマがあります。結婚生活の道を歩む人々が子を儲けるのは自然なことです。結婚生活を営む人々に対して生涯の性的禁欲を求めるのは馬鹿げています。

 

結婚生活者であれ、独身生活者であれ、性的禁欲によって霊的成長を成し遂げようとしても、望むものは得られません。

 

生き物たちは各自の本性に従うもの。明知の人でさえ、自身の本性に従って行為する。抑制が何を成し遂げられようか。(バガヴァッド・ギーター3章33節)

 

Creatures follow their own nature. Even the enlightened man acts according to his own nature. What can restraint accomplish?"Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.229

 

霊的成長は、禁欲や抑制によって成し遂げられるものではありません。もちろん、性的行為に耽溺することは推奨されてはいません。とは言え、その対極である性的禁欲が推奨されているわけでもありません。耽溺がだめなら禁欲すればよい、というものではないのです。「(ブラフマチャリヤなどの)優れた徳目は、繰り返しサマーディを経験することによってのみ獲得し得る」とマハリシが語っているのは、そのためです。重要なのは、性的禁欲などという表面的な事柄ではなく、禁欲をしなくとも生命エネルギーが自然に上向きに流れる状況を生み出すことです。そして、そのためには、超越瞑想の実修を重ね、サマーディの経験を積み重ねる必要があります。

 

ウパニシャッドのなかに、こんな教えがあります。

 

ヤギャと呼ばれるものは実はブラフマチャリヤである。なぜなら、ブラフマチャリヤによって知者はブラフマンに到るからである。(チャーンドーギャ・ウパニシャッド 8.5.1

 

「ヤギャ」とは、一般的には、神々の加護を得るための、神々に供物を捧げる宗教的儀式を意味します。しかし、マハリシは、広義の「ヤギャ」は「進化を促進する行為」を意味すると解説しています。人を絶対的な有の方向に導く行為、人を束縛から解放するのに資する行為は、「ヤギャ」と呼ぶことができるのです。それゆえ、超越瞑想もヤギャの一つに数えられます。したがって、ヤギャとブラフマチャリヤを同等視するウパニシャッドの教えに照らせば、超越瞑想もまたブラフマチャリヤであると言うことができます。これは、マハリシが超越瞑想を性的純潔の誓いに譬えていることと符合します。

 

超越瞑想の実修を通して超越意識(サマーディ)の経験を積み重ねてゆくことで、超越意識は宇宙意識へと発展します。表面的な活動の有無にかかわらず、超越意識が失われなくなります。すると、自己は一切の活動に関与することなく活動から分離している、という真実が覚られます。そのとき、あらゆる活動は、自然の様々な活動を司る神々に捧げられたも同然になります(バガヴァッド・ギーター3章11節注釈)。つまり、あらゆる活動がヤギャとなるのです。そのような活動は、行為の結果に執着することなく為される、無私の行為です。それが、真の意味でのブラフマチャリヤ(ブラフマンの清らかな行い)です。

 

ヤギャのために行われる行為を除けば、この世の人々は行為に束縛されている。ヤギャのために、執着から解放されて行為に従事しなさい。(バガヴァッド・ギーター3章9節)

 

Excepting actions performed for yagya, this world is in bondage to action. For the sake of yagya engage in action free from attachment."Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.193

 

 

ヤギャの残り物である甘露を食す彼らは、永遠のブラフマンに到達する。(バガヴァッド・ギーター4章31節)

 

Eating the remains of the yagya, which is nectar, they reach the eternal Brahman. "Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.299

 

結果に執着することなく為される行為、すなわちヤギャ(ブラフマチャリヤ)によって、人は永遠のブラフマンに到達します。しかし、性的願望を抑制し、行動器官を抑制するだけでは、ブラフマチャリヤとは言えません。「行動器官を抑制しつつも、精神の内では感覚器官の対象をしきりに思う者」よりも「精神によって感覚器官を制御し、執着なく行動器官を行為のヨーガに従事させる者、そのような人の方が優れている」のです(バガヴァッド・ギーター3章6〜7節)。

 

以上の考察によって、ブラフマチャリヤは単なる性的禁欲ではない、ということが明確になりました。ブラフマチャリヤとは、心理的な観点から見れば、行為と行為の結果に執着することなく行為する境地であり、生理的な観点から見れば、生命エネルギーが絶えず上向きに流れる境地、すなわち「ウールドゥヴァ・レータス」である、ということになります。

 

 

Jai Guru Dev

 

 

© Chihiro Kobayakawa 2016

 

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