マハリシの教えを学ぶ友への手紙(95

 

 

学びとブラフマチャリヤ

 

 

私が参加したTTC(TM教師養成コース)では、コース途中で男女二人のコースリーダーが交代させられるという出来事がありました。理由は、男女の不要な接触を禁ずる規則を守らなかったから、というものでした。

 

そのTTCは1983年10月下旬から日本国内で始まったのですが、マハリシの指示によって、12月中旬から一箇月ほど中断され、或る特別な国際コースに合流することになりました。それは、TM運動史上最大規模のコースでした。世界中から7000人以上のシダーたちが米国のマハリシ国際大学に集い、TMシディ・プログラムの大規模なグループ実修をとおして強力な調和の影響を生み出し、世界に「ユートピアの味わい」を提供しようという壮大な実験が行われたのです。日本からも多くのシダーやTM教師が参加しました。その7000人コースが終了し、TTCが再開されようとしていた時のことです。当時の日本の組織の幹部から、コースリーダーが二人とも交代することになったという発表があったのです。

 

日本で開催される合宿コースなどの場合は、男女の隔絶が徹底されていないので、馴染みのない人も多いかもしれませんが、厳格に行われるコースでは、可能なかぎり男女を隔絶し接触を避けるという規則があります。瞑想の実修と学びに専念するべく、あらぬ方向に注意が逸れないようにするための措置です。7000人のコースの場合も、TMシディ・プログラムを実修する施設はもちろんのこと、宿泊場所や食堂も完全に分けられていました。にもかかわらず、TTCのコースリーダーの二人は、お目当ての人物との逢瀬を重ねていたのです。二人の行動は他のTM教師たちによって問題視されることになり、幹部たちがマハリシと面会した際に問題として提起され、そこでマハリシの命が下された、ということのようです。マハリシとの間にどんなやり取りがあったのか詳しい経緯は分かりませんが、幹部の内の一人だった男性コースリーダーは、そのままTM運動から去ることになったそうです。

 

言うまでもなく、TTCは男女の交流を深める場ではありません。参加者たちは、TM教師になるために必要な訓練を受けるという、コースの目的に専念することが求められます。余計なことには注意を向けないよう求められます。そのためにも、種々の願望を刺激するものには触れないのが賢明です。男女の接触を控えることが推奨されているのも、参加者たちを助けるためです。それゆえ、TTCは男女別々のコースとして開催されるのが理想的であり、男女混合で開催される場合でも、可能なかぎり男女を隔絶する形で進められることが推奨されています。私がアジア国際TTCのコースリーダーを務めたときにも、男女を隔絶するようにとの指示が、何度も国際本部から届きました。それほど、学びの場においては男女の接触を控えることが重視されているのです。

 

これはTTCに限った話ではありません。教えを学ぶ場、瞑想を実修する場においては、できるだけ男女を隔絶することが推奨されます。そんな規則は知らないというTM教師もいるかもしれませんが、長年の経験を積み重ねてきたTM教師ならば、様々な場面で男女の隔絶の必要性が明に暗に示されてきたことを知っているはずです。それが、最も徹底されているのは、おそらくプルシャ・コースとマザー・ディヴァイン・コースではないでしょうか。独身男性あるいは独身女性のみが参加するこれらのコースは、異性との接触を徹底的に回避する形で運営されます。

 

こうした配慮はすべて、ブラフマチャリヤ(性的純潔)に関係しています。性的純潔を保つのを助けるための配慮、性的な願望が芽吹くのを防ぐための配慮です。瞑想の実修や学びの妨げになる性的願望が生じるのを未然に防止するために、安全第一の措置として、男女の隔絶が推奨されているのです。

 

ブラフマチャリヤに関わるものとしては、他にも服装に関する規則があります。特に女性の服装に関するものですが、「肌を露出してはならない」「足首まで隠れるような、長いスカートの着用が望ましい」「肉体の線を強調するようなタイトな服を着てはならない」など、世間の女性たちが聞いたら驚くような規則があります。要するに、肉体的な魅力をアピールするような服装が禁じられているのです。最近の若い女性たちは、「お洒落」「ファッション」などと称して、平気で肌を露出したり、肉体の線を強調したりするようですが、そんな服装は教えを学ぶ場に相応しくありません。それは、ブラフマチャリヤに反するものです。肉体的な魅力を引き出すべく「お洒落」に勤しむのもまた、性的行為の一種です。当人が自覚していなくとも、それは男性の注意を惹きつけるための手段であり、男性の性的願望を刺激するものだからです。万葉集の歌にも歌われているように、女性がお洒落をしたがるのは、明らかに男性を意識してのことです。

 

君なくは なぞ身装はむ 櫛笥(くしげ)なる 黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も 取らむとも思はず(万葉集、第九巻、1777)

 

歌意:貴方様がいらっしゃらないのなら、どうして身を装う気になれましょう。櫛笥(化粧箱)にしまってある小櫛も手に取ろうとさえ思いません。

 

女性は、男性を惹きつけるために、お洒落をし、化粧をし、美容を磨こうとします。想定されているのは、特定の男性かもしれませんし、男性全般かもしれませんが、男性の目を意識しなければ、お洒落をしたいという願望の大半は消えて無くなるのではないでしょうか。もちろん、礼儀として身だしなみを整える必要はあります。しかしながら、肉体的な魅力をアピールするような衣服を身にまといたいと言うのなら、その根底には性的な願望が隠されています。肉体的な魅力をアピールするという行為は、明らかに性的行為の一種です。だからこそ、教えを学ぶ場においては、肌を露出する服装などが禁じられているのです。

 

ブラフマチャリヤ(性的純潔)は、ヨーガ・スートラ(2章30節)のなかで、五つのヤマ(制戒:不傷害、真実語、不盗、性的純潔、不貪・不所有)の内の一つとして挙げられています。仏教においても、五戒の一つとして不邪淫の戒があります。ウパニシャッドにも、こんな教えがあります。

 

肉体の内にあり、光り輝く清らかなアートマンは、絶えざるサティヤ(真実語)、タパス(感覚器官や精神を制御する修行)、正しい知識、ブラフマチャリヤによって到達することができる。(ムンダカ・ウパニシャッド 3.1.5)

 

ヴェーダの教えにおいては、ブラフマチャリヤ(性的純潔)の必要性は、言わば常識的な事柄です。ただ、マハリシは、バガヴァッド・ギーター注釈の序文のなかで、ヨーガ哲学に関する誤解について解説し、「ヤマ、ニヤマなどの実践によってサマーディが獲得されるということはあり得ません。優れた徳目は、繰り返しサマーディを経験することによってのみ獲得し得るのです」と語っています。ヨーガの実修は、ヤマ、ニヤマなどの徳目から始まるものではなく、サマーディから始まらなくてはならない、そうマハリシは言います。ですが、それは、ヨーガを完成していない人間がヤマを実践しようとしても意味がない、というわけではありません。嘘をつきたいと思ったなら嘘をついてもかまわない、暴力に訴えたくなったなら暴力を行使してもかまわない、というわけではありません。そんな破戒的な想念が生じたなら、それを何とかして自制しなくてはなりません。そのことは、ヨーガ・スートラにも語られているとおりです(2章33〜34節)。

 

確かに、マハリシの言うとおり、ブラフマチャリヤなどのヤマを確立するためには、サマーディの経験を積み重ね、ヨーガを完成させる必要があります。ですが、ヨーガの完成に到る途上において、ヤマは補助的な手段になります。ヤマを守ることによって、サマーディの経験は容易になり、サマーディの経験を積み重ねることによって、ヤマが自然と身についてゆくのです。両者は相乗的です。それゆえ、ヴェーダの教えにおいては、いくつかの徳目を守ることが推奨されているのです。破戒的な想念が生じたとしても、それに従うべきではありません。また、破戒的な想念を喚起するような刺激にあえて身をさらす必要もありません。学びの場において男女の隔絶が推奨されているのも、性的な願望を誘発するものから生徒を遠ざけ、ブラフマチャリヤの制戒を保ちやすい環境を作るためです。

 

人は、精神の内に、過去の経験の印象という願望の種子を抱えています。それは、過去生から引き継がれたものかもしれませんし、今生において蓄積されたものかもしれません。願望の種子は、機が熟したときに発芽します。強い種子は、水をやらなくとも自力で発芽するかもしれません。しかし、弱い種子は、水をやらないかぎり発芽しません。あるいは、発芽したとしても、すぐに萎れてしまいます。望ましくない願望が生じるのを防ぐには、そんな願望の種子に水をやらないことが重要です。わざわざ願望を誘発するものに触れないことが重要です。性的願望の種子を内に抱えており、性的願望から解放されていないのなら、種子の発芽を促すものから遠ざかるのが賢明です。

 

ブラフマチャリヤ(brahma-charya)という語は、字義的には「ブラフマンの行い」「ブラフマンに至る道を行くこと」「ブラフマンの探究」「ブラフマンの内に生きること」などの語義を持っています。そこから、「清浄な行い」「性的純潔」という意味が派生します。また、ブラフマチャリヤには「学生期」という意味もあります。ヴェーダの教えを学ぶ者には、当然のごとく「性的純潔」が求められています。ですから、マハリシの教えを学ぶ場においてもブラフマチャリヤが求められており、そのために男女を隔絶するなどの措置が講じられているのです。こうした規則を提示することによって、マハリシは、ブラフマチャリヤについて多くを語ることなく、その重要性をさり気なく教示しているようです。

 

 

Jai Guru Dev

 

 

© Chihiro Kobayakawa 2016

 

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