マハリシの教えを学ぶ友への手紙(127

 

 

三つのグナとブラフマン

 

 

三年ほどの前の『ユートピア』(マハリシ総合教育研究所の会員情報誌)に、三つのグナに関する教えとして、三人の盗賊の譬え話が紹介されたことがありました。その際、出典は明らかにされていなかったのですが、実は、それは近代インドの有名な聖者ラーマクリシュナの言葉でした。『ユートピア』では話の要旨しか掲載されていませんでしが、その前後を含めた部分を訳出して紹介します。元文献はインターネットで公開されている英語版『カタームリタ(甘露の言葉、不滅の言葉)』("Kathamrita, 2001, Sri Ma Trust")の第1巻(第6部2章の一部)です。

 

M(著者):慈悲もまた束縛なのでしょうか。

 

シュリー・ラーマクリシュナ:それは、とても微妙な理解しがたい事柄です。慈悲はサットヴァから生じます。サットヴァ(純質)は維持し、ラジャス(激質)は創造し、タマス(暗質)は破壊します。しかし、ブラフマンは三つのグナ、サットヴァ、ラジャス、タマスを超越しています。プラクリティ(根源的自然)を超越しています。

 

三つのグナはブラフマンに到達することができません。それらは、捕まるのを恐れて公の場に出られない盗賊のようなものです。サットヴァ、ラジャス、タマスの三つのグナは盗賊です。一つ譬え話をしましょう。

 

一人の男が森を通り抜けようとしていたところ、三人の盗賊が現れ、男は捕らえられてしまいました。盗賊たちは男の持ち物すべてを奪いました。盗賊の一人が「もう此奴を生かしておく必要はない」と言って、刀に手をやり、一歩前に出ました。すると、別の盗賊が「やめておけ、殺すことはないだろう。手足を縛ってここに放って置こう」と言いました。そうして、盗賊たちは男を置いて行ってしまいます。しばらくすると盗賊の一人が戻って来ました。「お前さん、ひどい目にあったな。いま縄を解いてやろう」と言い、縄を解くと「ついて来い。街道まで連れて行ってやる」と言ったのです。長い時間をかけて街道に出ると、盗賊は「この道を辿って行け。ほら、あそこにお前の家が見えるだろ」と言いました。そこで、男は盗賊に言います。「ご親切にありがとうございます。どうぞ我が家まで一緒に来て下さい」。すると盗賊はこう答えました。「私はそこまで行くことはできない。警官に気づかれてしまうから」。

 

この世界は森のようなものです。この森にはサットヴァ、ラジャス、タマスという盗賊がいて、人間から明知を奪い取ります。タマスは、人を破壊しようとします。ラジャスは、人をこの世界に縛り付けます。しかし、サットヴァは、人をラジャスとタマスから救い出します。サットヴァの保護を得て、人は情欲や怒りなどのタマスの邪悪な影響から救われます。また、サットヴァは、この世界の束縛から人を解き放ちます。ですが、そのサットヴァもまた盗賊であり、明知を与えることはできません。神へと通じる道まで連れて行ってくれるだけです。道に連れて出ると、「ご覧なさい、あそこにあなたの家が見える」と言うのです。しかし、サットヴァは、プラフマンの知識から遠く離れた所に留まっているのです。

 

ブラフマンとは何か、それを言葉で言い表すことはできません。ブラフマンに到達した者はブラフマンに関する情報を与えることができません。諺にあるように「黒い水域に入った舟は決して戻って来ない」のです。

 

四人の友達が連れだって歩いていると、高い壁に行き当たりました。壁の向こうに何があるのか知りたくなった一人が、見てみようとして壁をよじ登りました。壁越しに覗いてみると、彼は「おお、おお」と驚嘆の声を上げ、向こう側に落ちてしまいました。何も報告することなく。全員が壁を登り「おお、おお」と声を上げ、向こう側に落ちてしまったのです。だから、誰も自分が見たものを報告できなかったのです。("Kathamrita, 2001, Sri Ma Trust" の第1巻、第6部2章、1883722日の記録)

 

この一節には「ブラフマンは三つのグナを超えており、言葉で言い表すことはできない」という題が付されています。ブラフマンは言葉の領域を超越しており、どんな言葉をもってしてもブラフマンを説明することはできません。言葉は、そこから引き返すしかないのです。そのことは、マハリシが何度か引用しているウパニシャッドの言葉(Yato vacho nivartante . . .)にも言い表されています。

 

言葉は、ブラフマンに達することなく、精神と共に、そこから引き返す。そのブラフマンの至福を知る者は、決して恐怖を抱くことがない。(タイッティリーヤ・ウパニシャッド 2.4.1

 

ラーマクリシュナはこうも言っています。

 

ブラフマンとはどういうものか、それを言葉で説明することはできません。誰かが言いました。「すべては人間の舌によって汚されてしまった。しかし、ブラフマンが汚されることは決してなかった」。つまり、ヴェーダ、プラーナ、タントラなどの教典は、人間の舌によって吟唱されるので汚されてしまったと言うことができます。しかし、ブラフマンとはどういうものか、それは誰も言葉で言い表すことができませんでした。ですから、ブラフマンは未だ汚されていないのです。人は、サット・チット・アーナンダとの戯れや交流を言葉で描写することができません。それを経験した人だけが知っているのです。("Kathamrita, 2001, Sri Ma Trust" の第1巻、第18部2章、18851027日の記録)

 

さて、ラーマクリシュナは、三つのグナを世界という森に潜む三人組の盗賊になぞらえました。三つのグナの領域に留まっているかぎり、人はブラフマン(アートマン)の認識を奪われた状態に留まるからです。タマスは人を破滅させ、ラジャスは人を相対的な世界に束縛します。人が行為の帰結を理解できずに分別なく行為するのは、タマスのせいです。善くないことだと分かっていながら欲望に駆られて行為するのは、ラジャスのせいです。サットヴァは、タマスとラジャスの悪影響から人を解放します。しかしながら、サットヴァはブラフマンへ通じる道を示してはくれるのですが、サットヴァもまた盗賊であり、ブラフマンの認識を与えることはできません。サットヴァといえどもブラフマンに到達することはできないのです。これと同様のことは、マハリシも語っています。以下は、バガヴァッド・ギーター6章20節と21節の本文と注釈です。

 

ヨーガの実修をとおして落ち着いた想念が隠退する、そのような状態において、ヨーギーは、自己を自己のみによって見て、自己のなかに満足を見出し、(バガヴァッド・ギーター6章20節)

 

「自己を自己のみによって見て」の「のみ」という言葉は重要です。なぜなら、この言葉によって、超越的な自己自体がその存在の中身を形成しているということ、そして、いかなる相対的な存在も超越的な自己を認知することはできないということが強調されているからです。超越的な自己の純粋性は永遠かつ至高であるので、個別生命の最も精細な側面である確固たる知性でさえ、それにとっては異質であり、そのなかに入ることを拒まれます。知性が自己の永遠の有のなかに居場所を見つけるためには、自身の存在を放棄しなくてはならないのです。(バガヴァッド・ギーター6章20節注釈)

 

That (state) in which thought, settled through the practice of Yoga, retires, in which, seeing the Self by the Self alone, he finds contentment in the Self;Bhagavad-Gita, 6.20

 

The word 'alone' is significant, for it emphasizes that the transcendental Self Itself forms the content of Its Being and that nothing which is of relative existence can possibly cognize It. Its purity, eternal and supreme, is such that even the finest aspect of individual life, the resolute intellect, is foreign to It and is denied entry into It. The intellect has to surrender its existence in order to find its place in the eternal Being of the Self."Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.423-424

 

無限の喜びであるもの、感覚器官の彼方にあり、知性によって獲得されるものを知り、そこに確立して、まったく揺らぐことがなく、(バガヴァッド・ギーター6章21節)

 

主クリシュナは、無限の喜びが超越的な性質のものである、と語っています。それが知られるのは、相対界の最も微細な面である知性が自らの存在を放棄して、超越的な自己に没するときだけです。そのことは前節で説明したとおりです。無限の喜びを一度知れば、人はそれにすっかり魅了されてしまうので、その影響を全く受けない状態に戻ることは決してあり得ません。

 

「知性によって獲得される」について:無限の喜びは知性が自らの存在を放棄することで訪れるのですが、それでもなお「知性によって獲得される」と言われます。王子が王になるとき、王子は存在しなくなるのですが、それでもなお王子が王位を「獲得した」と言うことができます。超越的な自己の状態が「知性によって獲得される」というのは、このような意味においてです。(バガヴァッド・ギーター6章21節注釈)

 

Knowing that which is infinite joy and which, lying beyond the senses, is gained by the intellect, and wherein established, truly he does not waver;Bhagavad-Gita, 6.21

 

The Lord says that infinite joy is of transcendental nature; it is known only when the subtlest aspect of relativity, the intellect, surrenders itself to the transcendental Self, as was explained in the previous verse. Once it is known, one is so captivated by it that one can never again be completely out of its influence.

 

'Gained by the intellect': although infinite joy comes with the surrender of the intellect, it is even then said to be 'gained by the intellect'. When the crown prince becomes king, the crown prince ceases to exist, but even then it can be said that the crown prince has 'gained' kingship. It is in this sense that the state of transcendental Self is 'gained by the intellect'. "Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita", p.425

 

個別生命の最も精細な面であるブッディ(知性)でさえ、アートマン(自己)の中に入ることを拒まれ、アートマンを知ることはできません。しかし同時に、微妙な話ではあるのですが、アートマンは知性によって知られると言うこともできます。それは、以下のウパニシャッドが明言しているとおりです。

 

ブラフマンは精神によってのみ覚知される。(カタ・ウパニシャッド 2.1.11

 

アートマンは、浄化され純粋になった精神によって覚知されます。浄化され最高の純粋性を得た精神、それが知性(ブッディ)です。揺らぐことのない確固たるブッディは、相対的な個別生命における最も精細な面であり、最も純粋な要素です。それはサットヴァそのものです。アートマンの認識を可能にするのは、このサットヴァです。

 

サットヴァから知識が生じ、ラジャスから貪欲が生じる。タマスからは、怠慢、迷妄、無知が生じる。(バガヴァッド・ギーター14章17節)

 

ブッディはアートマンに最も近い存在であり、アートマンと同様の純粋性を得ることができます。

 

サットヴァがプルシャのごとく清浄であるとき、プルシャの独存(カイヴァリヤ)がある。(ヨーガ・スートラ3章55節)

 

ブッディ・サットヴァ(ブッディのサットヴァ)がラジャスとタマスの汚れから解放されるとき、それはプルシャとプラクリティの識別のみに専念し、苦しみの種子が焼き尽くされる。そして、ブッディ・サットヴァは、その清浄性のゆえにプルシャのごとくになる。(ヴィヤーサ注釈)

 

アートマンを知るのは清浄なブッディです。ラジャスとタマスによって汚されていない純粋なサットヴァ(ブッディ)がアートマンを知るのです。サットヴァ(ブッディ)がプルシャと同様の純粋性を獲得するとき、プルシャとプラクリティ(三つのグナ)が識別され、プルシャの独存(すなわち解脱)が実現します。

 

ラーマクリシュナは三つのグナを三人の盗賊に譬えました。ラジャスやタマスだけでなく、サットヴァもまた盗賊の一員です。しかし、サットヴァがラジャスやタマスの悪影響を受けることなく単独で機能するならば、サットヴァはブラフマン(アートマン)の認識を生じ、人を束縛から解放することができます。サットヴァそのものはブラフマンに到達することができないのですが、ブラフマンに到る道を私たちに示してくれます。ラジャスとタマスによって汚されたサットヴァ(マリナ・サットヴァ)は盗賊のようなものですが、ラジャスとタマスによって汚されていない清浄なサットヴァ(シュッダ・サットヴァ)はブラフマンの認識へと私たちを導きます。それゆえ、ヴェーダの教えにおいては、サットヴァの重要性が説かれ、浄化の手段であるヨーガなどの実修が推奨されるのです。

 

ラーマクリシュナはこうも言っています。

 

サットヴァ・グナは梯子の最後の一段です。その先に屋根があります。サットヴァが獲得されたならば、神の直覚は遠くありません。("Kathamrita, 2001, Sri Ma Trust" の第1巻、第12部6章、18841019日の記録)

 

 

Jai Guru Dev

 

 

© Chihiro Kobayakawa 2020

 

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